永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

キング・オブ・なごやめし!ひつまぶし

いくら「なごやめし」がブームとはいえ、味噌かつ味噌煮込みうどんなど豆味噌を使った料理や濃厚でピリ辛のあんかけスパなど好みがハッキリと分かれる料理も多い。そんななかでも万民受けするのがひつまぶしだろう。

ひつまぶしの発祥店として名乗りを上げているのは、熱田区『あつた蓬莱軒』と中区錦3丁目の『いば昇』。両店のHPを見ると、『いば昇』は発祥を大正時代、『あつた蓬莱軒』は明治時代としていて、後者は発祥のエピソードも掲載している。私が何度か取材をした際に聞いた部分も交えて、あらためて紹介しよう。

ひつまぶしの発祥は明治時代末期。当時は出前の注文が多く、出前持ちが丼を割ってしまうことがたびたびあり、人数分のご飯と鰻を大きなお櫃に入れて客に届けることにした。ところが、今度は鰻の枚数をめぐって客の間でトラブルに。そこで鰻を細かく刻んだのがひつまぶしのはじまりである。薬味やだし汁で食べるようになったのは戦後からだという。

また、ウィキペディアにはこんなことも書かれていた。以下に引用する。

ひつまぶし - Wikipedia

地元では実際には、細かく切るようになったのはクズのウナギを体裁よく出すためのさいころ切りであったり、お茶を掛けることについては、店員が洗い物を楽にするために、客にお茶を掛けるようにそそのかしたのが始まりと言われている。しかし、地元のプライドもあり、この話しは、あまり広められることはない。

いやいや、こんな話は聞いたことがない。もともと名古屋人は自虐ネタを交えながら地元の文化を語ることが多いが、これはヒドすぎる。悪意すら感じてしまう。どうかこのような情報を鵜呑みにしないでいただきたい。

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これが『あつた蓬莱軒』の「ひつまぶし」。お櫃に鰻がぎっしりと敷き詰められていて、何とも旨そうだ。いや、実際に旨いんだけども。タレは甘すぎず、辛すぎず。皮はパリッと、身はふんわり。頬張るごとに炭火焼きならでは香ばしさが口いっぱいに広がり、鼻から抜ける。発祥の店ゆえに、食べる側にとってはここの味がひつまぶしを出すすべての店の基準になっているのではないだろうか。

今や『あつた蓬莱軒』はひつまぶしの代名詞にもなっていて、全国から客が訪れる。平日に行ってもかなり混み合うのが難点だ。ちなみにこの写真を撮影したのは昨年11月15日。ちょうど七五三詣での日で開店前から店の前には20人ほど並んでいた。取材に対応してくださった店長によると、その前の日曜日(11月13日)は開店から閉店までずっと満席状態が続いていたというからスゴイ。

私の両親はあの店が旨いという噂を聞きつけると、わざわざ食べに行くほど大の鰻好きだった。必然的に家族で外食するときも鰻屋が多かった。しかし、今思い出しても、幼い頃に行った鰻屋、そこそこの有名店だと思うが、そこにはメニューにひつまぶしがなかったのである。私が生まれて初めてひつまぶしを食べたのは、社会人になって間もない20歳か21歳頃だったと思う。と、いうことは約25年前だ。それでも今ほどメジャーなものではなかった。では、いつ頃からひつまぶしは普及したのか?

知り合いの鰻屋さんに聞いてみたところ、「先代が40年ほど前に導入しました」とのこと。40年前というと、昭和50年代初頭である。ひつまぶしの発祥が明治時代であれ、大正時代であれ、巷の鰻屋さんがメニューに採り入れるまではかなりのスパンがあったことがわかった。

ここからは私の想像であるが、ひつまぶしを導入するのに慎重だったのは、職人ならではのこだわりが原因だったのではないか。ご存じの通り、ひつまぶしは鰻を細かく刻む。せっかく丹精込めて焼き上げた鰻を刻んでしまうことを職人としてゆるせなかったのではないかと思うのだ。

実際、取材を通じて知り合った職人さんのなかには、そうおっしゃる方もいた。鰻屋も麺類食堂と同じで、客の年齢層が高い。ひつまぶしを出せば若い世代の客も来るし、何よりも売れる。ひつまぶしは鰻屋にとって起死回生のメニューだったのではないか。今は値段が高すぎて若者でなくてもひつまぶしは高嶺の花となってしまったが…。

「なごやめし」のブログを書いている者が何を言ってるんだ!という批判を覚悟の上で書くが、私は鰻屋へ行くと、ひつまぶしではなく鰻丼を注文する。寿司や蕎麦と同様に、職人の技を堪能するべき料理だと思うし、湯せんした熱々の丼に盛られた、これまた熱々のご飯に焼きたての鰻をのせた丼こそがキング・オブ・鰻料理だと思うのだ。とはいえ、ひつまぶしも食べることは食べる。それは、東京など県外からお客さんが来たときのみである。