昨日は、誕生日ということもあって、Facebookのタイムラインには、友達からお祝いのコメントが寄せられた。また、メッセージも数多くいただいた。
以下の文章は、それらの返信にFacebookに載せたものである。家族の写真も載せていたため、友達限定の公開にしたが、文章のみなら誰に見られても構わないのでここに公開する。
Facebookの友達の皆様へ
皆様、数多くのお祝いコメントやメッセージをありがとうございました。
1つ1つ、読ませていただきました。本当に私は幸せ者だと実感しています。
今夜は女房と次男に近所の『サイゼリヤ』で誕生日を祝って貰いました。嬉しかったので、女房にチューをしようとしたら全力で拒否られました(笑)。
『サイゼリヤ』では次男と写真を撮りました。
アルバイトのため来られなかった長男は帰宅後に自宅で写真を撮りました。
長男は21歳、次男は18歳ですが、今でもこうやって素直に写真を撮らせてくれるのは、親として本当に嬉しいことです。
さて、年明けあたりから、50歳という年齢を意識して生きてきました。
誕生日という佳き日にこんなことを言うのもアレですが、それまでは「いつ死んでもいい」と思っていました。
いや、今まで真剣に考えていなかったかもしれません。「生きる」ということを。
とりあえず、好きなことを仕事にしているし、毎日それなりに充実しているから、別にいつ死んでもいいわ、と。
しかし、いざ、50歳に近付くにつれて、「あれもやっていない」、「これもやっていない」と、急に焦り出しました。私の中にはっきりと生への執着が芽生えたのです。端から見て、さぞかし見苦しかったことでしょう。
今でも、その気持ちは変わっていません。だからといって、時の流れを止めることなんてできるわけがありません。
そして、今日、私は50歳を迎えました。
今、心に決めているのは、「本気で生きる」ということです。
オンとオフを使い分けるなんて芸当は不器用な私にはできません。だから、仕事はもちろん、遊ぶときも本気。家族と過ごすときも本気。飯を食うときも、風呂に入るときも、寝るときも本気。
何だか、運命が変わるような気がしてきました。きっと変わるでしょう。いや、変えてみせますとも。
私がめざすのは、「ナゴヤにナガヤあり」と言われることです。それも、東京のメディア業界から。彼らの間で知る人ぞ知る存在になりたいのです。
今朝、立川志らく師匠のTwitterを見ました。そこには、
一流とはスターを指す。二流は誰もが羨む存在にはなれなかった人を指す。三流は最初から一流を目指すことすら出来なかった人を指す。超二流は誰もが羨む存在ではないが一流より濃いファンがいてファンからすると一流より遥かに凄い人を指す。志ん朝は一流、談志は超二流。高倉健は一流、勝新は超二流。
— 志らく (@shiraku666) April 24, 2019
と、ありました。
名古屋は決して一流ではありません。三流とまではいかないまでも二流がいいところでしょう。
私は二流の名古屋に居ながらにして、一流の都市である東京のメディア関係者から「ナゴヤにナガヤあり」と言わしめたい。立川志らく師匠の言うところの超二流になりたい。
そんなことを考えています。
皆様、今後ともよろしくお願いいたします。
平成31年4月25日
永谷正樹