カメラマンを志したとき、自分が撮った写真で世の中を明るくすることができたらと思っていた。だから、悲惨な事件や事故、不快な気分になるようなスキャンダルの写真は撮らない、と心に決めていた。
それは今も変わっていない。オファーが来ても断るので次第にそういった仕事の依頼は来なくなった。
断っておくが、事件や事故などを撮影するカメラマンをディスっているわけではない。それもメディアの使命であるし、むしろ、私は彼らを尊敬している。ただ、私がやらなくても他の誰かがやればよい。そう思っているだけだ。
私が料理を被写体に選んだのは、写真を見た誰もが幸せな気持ちになるから。美味しい料理は、思想的に右巻きだろうが、左巻きだろうが一切関係なく、誰もが幸せになれるのである。それは本当にスゴイことだと思う。
自分が撮った写真で世の中を明るく───。「お前の頭の中はお花畑か?」と、思うのであれば、それでもよい。
世の中の、人々の、暗い面、それは不条理さだったり、生き辛さだったり、苦悩だったり、悲しみだったり。私なりに向き合っているつもりだ。
だからこそ、その人が作った料理に命が宿る。
だからこそ、写真にしたときに料理も、それを作った人も魅力が引き出される。
願わくば、レンズを向ける人のことを、もっともっと理解してあげられる人になりたい。
溢れんばかりのパワーを持っている人であれば、圧倒されるのではなく、逆に私のパワーで押し返したい。
その人が泣いていたら、慰めの言葉をかけるのではなく、一緒に泣いてあげられるような人になりたい。
レンズを人に向けるということは、写し手の人格と被写体の人格の触れ合いであり、勝負である。私が生きていることを実感する瞬間でもある。