永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

行間から伝わる哀しみ。

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何年か前から、宇多田ヒカルの曲を聴くようになった。車のHDDオーディオには、宇多田ヒカルばかり。アルバムが8作品くらい入っているから、遠出してもほぼエンドレスで宇多田ヒカル。

きっかけは長男だった。たまたまCDを持っていて、何気なく聴かせてもらったら、琴線に触れるフレーズがあったのだ。まさか50歳になって、宇多田ヒカルの曲にハマるとは思わなかった(笑)。

宇多田ヒカルの曲には、儚さや哀しさに溢れていると思った。それはアップテンポの曲であっても、そこには儚さや哀しさが見え隠れする。切なくて胸が苦しくなるけど、聴かずにはいられない。そんな不思議な魅力がある。

Facebookやインスタ、Twitter、ブログでも行間から哀しさが伝わってくる人もいる。これは私が文章を生業としているからだろうか。遊びに行ったときや美味しいものを食べた投稿を見ても、心は満たされずに泣いている、みたいなものを感じてしまうのだ。

宇多田ヒカルの曲を聴いたときのように、切なくて胸が苦しくなる。どうか、幸せになってもらいたいと願わずにはいられない。

考えてみれば、私のブログも読んだ方に不快とまではいかなくても、複雑な気分にさせてしまっているかもしれない。思う通りに生きられないもどかしさや大言壮語の数々に、「50歳のおっさんがナニ言ってんだか」と呆れている方もいるだろう。

いや、本当に申し訳ない。何度か書いていると思うが、私はライターゆえに書くことで自分の気持ちを整理しているのだ。ならば、それを公開しなければよいという意見もあるだろう。その通りだと思う。だが、女房の写真と同様に、公開することで作品になると勝手に思っているのである。

女房の写真もこのブログの駄文もお金を生み出すことはないだろう。自己満足にすぎないかもしれない。それでも公開するのは、写真や文章で何かを表現する者の性としか説明しようがない。

生きていれば辛いことや悲しいこともある。その苦しみをガマンしてまで明るく生きろとは思わない。私に言えるのは、向かい合うことだ。宇多田ヒカルは、苦しみと対峙して数多くの作品を創り上げた。

私は……。毎日ブログを書くことでオノレと向き合い、それで心を保っている。向き合うのを拒み、思考停止していては、いつまでも苦しみから逃げ続けることになる。そんな人生はまっぴら御免だ。