永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

生涯一編集者。

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私がまだ駆け出しだった頃に大変お世話になった編集者と一緒に仕事をした。当時、私は彼が働く出版社で別の雑誌の仕事をしていた。ところが、休刊の憂き目に遭い、もう、この出版社で仕事をすることはないと諦めていた。

そんな中、編集担当が紹介してくださったのが女性週刊誌の編集部員の彼だった。私より7歳年上。当時はデスクを務めていたと思う。

時は2001年。名古屋では万博へのカウントダウンが始まり、にわかに名古屋が注目を集めていた頃だった。名古屋めしという言葉が生まれたこともあり、味噌かつや手羽先などを一緒に取材した。

また、私が編集部への挨拶まわりで東京へ行ったときは、沢山の編集者を紹介してくださった。そして、夜は食事へ連れて行ってくださった。名古屋にはないような店ばかりで田舎者の若造だった私は見るもの食べるものすべてが新鮮に思えた。

その後、紹介していただいた編集者からもオファーをいただくようになり、活版、実用グラビアといろんなページで仕事をさせてもらった。

何年か経ち、新しい女性月刊誌が創刊されると、彼は副編集長となった。その雑誌では連載の仕事をいただいた。担当は何人か替わったが、今もその仕事は続いている。これもすべて彼のおかげだと感謝している。

すぐに副編集長から編集長となり、彼はテレビやネットなどメディアに頻繁に登場するようになった。もう、私なんぞのような地方カメラマンとは別の世界に住んでいるように思えた。少し寂しい気もしたが、お世話になった編集者が活躍されていることが誇らしくも思えた。

そして、7年前、50歳のなったのを機に会社を辞めた。これには本当に驚いた。デキる編集者であったし、創刊した女性月刊誌は出版不況の中でもヒットを飛ばした。いわば功労者である。そのまま会社に残れば、役員、いや、社長だって夢ではない。でも、辞めた。

今回、オファーをいただき、私のことを覚えていてくださったのが何よりも嬉しかった。何を差し置いても、絶対に引き受けさせていただこうと思った。そして、なぜ会社を辞めたのか訊いてみた。

「ずっと自分の好きなものを作っていきたいと思ったから。50歳を過ぎると、なかなか編集の現場では働かせてもらえないからね」と、彼は語った。

実際、私が駆け出しの頃にお世話になった編集者は皆、出世していて雑誌編集の現場にはいない。すでに定年退職された方もいる。生涯一編集者を望むのなら、会社にはいられないのか。

彼は今、57歳。とても見えないのは、誰に気兼ねすることもなく、好きなことをやっているからだろう。50歳になったとき、私は肉体が老化していくとともに、どんどん仕事の能力も落ちていくと思っていた。

しかし、そうではなく、いろんなことを経験してきたことによって、どんどん円熟味を増していくのだ。そう考えると、年をとるのも悪くはない。これからの人生に少しだけ希望を持つことができた。

山本由樹さん、ありがとうございました。