永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

生きることは、考えること。

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「ナガヤはいろんなことを考えすぎる」と、よく人から言われる。ブログの読者様も私に対してそんな印象を持っているのではないだろうか。

誰だって、ラクをして生きたい。私もそう思っている。いろいろ考えるから、苦しくなる。面倒くさくなる。自己嫌悪に陥る。いっそのこと、何も考えなければ、ラクして生きられるのではないか。そう思うことも多々ある。

実際、ネットでも見ていれば一日なんてあっという間に過ぎる。ゲームをやったり、マンガを読んだりしても時間は潰れる。

私の場合、目の前にある仕事をこなすことで何も考えなくなった。と、いうか、仕事さえ途切れなければ、明るい未来が待っていると信じていた。

でも、50歳を目前にして行き詰まった。このまま何も考えずに生きていたら、カメラマンとしても、ライターとしても、人としても、男としてもダメになると思った。50歳から先の生き方を考えざるを得なくなった。

徹底的に自分自身を見つめ直し、「お前は何者か?」、「お前はなにをめざしているのか」、「お前は自由に生きているのか」と、自問自答を繰り返した。ブログを始めたのも、自分の考えをまとめるためだった。

「永谷正樹」を仕事にする、という結論に至り、ラクになった。それこそ、毎日のルーティーン、例えば、朝食を作ることまでもが自分の中で意味のあるものになった。仕事においては、その日出会った人に「縁」を感じるようになった。取材や撮影をしている、その瞬間がとても尊く思えた。大げさでも何でもなく、生きているという実感がわいた。

私はブログの中で「くそったれの人生」というフレーズをよく使う。くそったれの人生とは、何も考えずに生きる人生のことだ。それは、同時に誰かの、また、何かの奴隷になっていることも意味する。おそらく、自覚していないだろうが、少なくとも私にはそう見える。

前に関西大学総合情報学科の学生に向けても書いたが、今のこの世の中は何も考えなくてもよいような、いや、むしろ、考えてもらっては困るような仕組みが出来上がっているのである。

私が国の指導者なら、いや、それはあまりにも非現実的だな(笑)。会社経営くらいにしておこう。会社を経営していたら、社員に何も考えさせない。疑問を持たせない。仮想の敵をデッチ上げて、そちらへ気持ちを向けるようにする。その方が会社を運営しやすいし、利益も上がる。

選挙における投票率の低さは今はじまったことではないが、かつて「無党派層が『関心ない』と言って寝ててくれたらいいが、そうもいかない」と、つい、本音が出てしまったバカもいたし。あ、そのバカはどこかの国の指導者だったな。

物事を考えないという点で、ネットはその最たるものである。なぜなら、自分が信じたい情報しか検索しないからだ。結果、どんどん考え方が偏っていき、俯瞰で物事を考えなくなる。私にはそれがとても不自由に思えてならない。偏った情報の奴隷になっているとしか言いようがない。本当にくそったれの人生だ。

生きることは考えることである。だから、私は自分の頭でしっかりと考える。