永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

「なごやめし」とは何か? の検索結果:

リメンバー!なごやめし・3

…また、ほぼ同時進行で「なごやめし」とは何か?についても議論を進めなければならなかった。このブログにも書いた「なごやめし」の定義はその頃に話し合ったことがベースとなっている。そのなかで、あらためて気が付いたのは、店と客との距離の近さだった。とはいえ、現在、個人経営の店であっても、ファストフードやファミレスの、極端な言い方をすれば「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」だけの画一的なサービスになっているのではないかと思ったのだ。 個人経営の店の魅力は客がお金を払い、店が商…

「なごやめし」とは何か?6(最終回)

汎用性の高さから生まれる「新なごやめし」 講談社(現在は講談社ビーシー)発行のグルメ情報誌『おとなの週末』で'14年11月号から翌'15年8月号まで「おと週認定“新名古屋めし”」という連載企画を担当した。見開き2ページで、右側には定番の「なごやめし」を、左側にはそれをアレンジした「新なごやめし」を紹介するというものだった。 『おとなの週末』は、客に扮したライターが実際に飲み食いした店のなかから、いちばん美味しかった店を取材するというのが編集方針だった。私はひつまぶしや台湾ラー…

「なごやめし」とは何か?5

「第二次なごやめしブーム」の核となるもの '08年に『麺屋はなび 高畑本店』から生まれた「台湾まぜそば」は、新山社長の目論見通り、瞬く間にブームとなった。平日でも店の前には長蛇の列。今池の台湾料理店『味仙』が発祥の「台湾ラーメン」がそうだったように、市内を中心に「台湾まぜそば」を出す店が増えた。しかし、その人気はまったく衰えることはなかった。 '14年7月、『麺屋はなび』は満を持して東京に進出を果たした。その結果は大成功。メディアもこぞって「台湾まぜそば」を紹介した。とくにテ…

「なごやめし」とは何か?4

「第二次なごやめしブーム」の黎明 '05年、愛知万博開幕とともに「なごやめし」のブームは最高潮に達した。「なごやめし」を採り上げたのは、テレビや雑誌など既存のメディアだけではなかった。その年に流行語大賞にも選出された、ブログだ。当時、多くの人々がブログを立ち上げていて、万博へ行ったついでに食べた「なごやめし」をアップすることで知名度はどんどん上がっていった。 ブームは万博閉幕後も続いた。と、いうよりは、名古屋城や名古屋港水族館と同列の、名古屋観光には欠かせないコンテンツとして…

「なごやめし」とは何か?3

…ごやめし」を生んだ 「なごやめし」とは何か?というテーマから、かなり横道に逸れてしまった。 一般的にローカルフードというのは、その土地の歴史や地場産業と密接につながっている。そのメニューが生まれたのは歴史的必然性があるのだ。 例えば、喫茶店のモーニングサービス。昭和30年代前半に愛知県一宮市が発祥とされる。一宮の地場産業である繊維業を営む、いわゆる「はたや」さんは昼夜を問わず頻繁に喫茶店を訪れていた。そこで人の良いマスターが朝のサービスとしてコーヒーにゆで卵とピーナツを付けた…

「なごやめし」とは何か?2

「なごやめし自虐史観」から脱却させた第一次なごやめしブーム '02年頃、東京で火が付いた「なごやめし」ブームが発祥の地、名古屋に飛び火した。愛知万博開催も大きな追い風となって、東京の大手メディアはこぞって名古屋に訪れて「なごやめし」を取材した。その反響は凄まじく、県外から多くの人々が「なごやめし」を目当てに来るようになった。 私はこの万博前後の時期に起こったブームを「第一次なごやめしブーム」と呼んでいる。10年以上経った今でも「なごやめし」が名古屋観光のキラーコンテンツになっ…

「なごやめし」とは何か?1

「なごやめし」という言葉は東京からの逆輸入? 「なごやめし」、と聞いて何を思い浮かべるだろうか?味噌かつ?それとも、手羽先?はたまた、ひつまぶし?それは人によって異なると思う。 では、「なごやめし」とは何だろうか?この問いに対して、明確に答えられる人に私は会ったことがない。っていうか、私も返答に困ってしまう。 「なごやめし」という言葉が生まれたのは、'01年。当時、名古屋を拠点にダイニングバーなどを展開する『ZETTON(ゼットン)』が東京・恵比寿へ進出したときのこと。名古屋…