永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

「なごやめし」とは何か?4

「第二次なごやめしブーム」の黎明

  '05年、愛知万博開幕とともに「なごやめし」のブームは最高潮に達した。「なごやめし」を採り上げたのは、テレビや雑誌など既存のメディアだけではなかった。その年に流行語大賞にも選出された、ブログだ。当時、多くの人々がブログを立ち上げていて、万博へ行ったついでに食べた「なごやめし」をアップすることで知名度はどんどん上がっていった。

 ブームは万博閉幕後も続いた。と、いうよりは、名古屋城名古屋港水族館と同列の、名古屋観光には欠かせないコンテンツとして県外の人々に認知されたのだ。名古屋駅前や栄など観光客が訪れるエリアには「なごやめし」を出す店が軒を連ねた。なかには観光客相手に何千円もするメニューを出す店があり、地元の人々は冷ややかな視線を向けた。

 だんだんと「なごやめし」は郷土料理ではなく、観光客のためのものになっていった。地元メディアも食傷気味となり、「なごやめし」を扱わなくなった。しかし、「第二次なごやめしブーム」は目の前まで迫っていた。

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 '08年、今後の「なごやめし」の行く手を担うメニューが生まれた。それが中川区高畑『麺屋はなび 高畑本店』の「台湾まぜそば」である。

 その頃、『麺屋はなび』の新山直人社長は、「台湾ラーメン」に使うニンニクや唐辛子で味付けしたピリ辛の「台湾ミンチ」に合うスープを研究していた。ところが、なかなかうまくいかず、失敗を繰り返していた。その日も失敗し、ゴミ箱に捨てようとしたところ、アルバイトの女の子のひと言に新山社長はピン!と来た。

 それは「汁なし」にするというものだった。新メニューの開発を手がけて3ヶ月、ついに現在の「台湾まぜそば」が完成させた。辛くて濃厚な味わいと客自身が混ぜて食べるというひと手間、そして昆布酢による味変やシメの「追い飯」など、新山社長は名古屋の人々にウケるに違いないと確信したという。「第二次なごやめしブーム」はここからはじまったのである。(つづく)