本や漫画、映画など私は繰り返し読んだり、観たりする。先日、宮部みゆき原作の映画『ソロモンの偽証』を久しぶりに観た。もう、4、5回目くらいだと思う。
あらすじなどは検索すれば沢山出てくるので、興味のある人はそれを見てくださればよいのだが、物語の最後の最後に、こんなセリフがある。
「心の声に蓋をすれば、自分が見たいものしか見えなくなるし、信じたいものしか信じられなくなる。そのことが一番、怖いことなんだなぁ」
思わず、ドキッとした。
ネットはすごく便利なツールであるし、私の仕事には不可欠なものである。
しかし、ネットによる功罪は、間違いなくある。人は自分が見たいものしか見ないし、信じたいものしか信じないからだ。
定年退職した父親が、一人暮らしを始めた息子が、家族の知らない間にネトウヨになっていた、というケースをよく耳にする。
自分の思想に合う情報、それもソースのはっきりしないものまで集めて、ファクトチェックせぬまま垂れ流す。さらには、同じ思想を持つ者とネット上で交流を持つようになると、さらにタチが悪い。
自分たちの思想に反するものはすべて排除する。周りもそれを止めないどころか煽りたてる。「日本から出て行け」、「やっつけろ!」、「殺せ!」と、どんどん過激になっていく。
本人は、国を愛するあまり、義憤にかられてのことだと言うだろう。しかし、そんなものは愛国でも何でもない。
そもそも、匿名で寄って集って誰かを、特定の国をつるし上げるという行為は、日本人として恥ずかしくはないのか。ってことを書いている自分も恥ずかしいわ。
ネットの世界だけで生きている者は、文字面だけで相手を判断してレッテルを貼る。いや、文字面しか判断する材料がないからそれは仕方のないことかもしれない。
しかし、人は黒か白、右か左と単純に分けられるものでもない。「反日だ!」、「工作員だ!」とのレッテルを貼られた人にも生活があり、家族がいる。冷静になればわかることも、ネットを介するとわからなくなる。それがネットの怖い部分でもある。
私には思想や信条がまったく異なる友達がいる。思想や信条は互いに相容れなくとも友達は友達なのだ。それが現実を生きるということではないだろうか。