永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

終戦の日。

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今日、8月15日は終戦の日。

アメリカに対して譲歩に譲歩を重ねたにもかかわらず、絶対に受け入れられない最後通告「ハル・ノート」を突きつけられたため、「やむを得ず」戦争に突入した。その戦争は、アジアにおける欧米列強による植民地支配を解放するための「聖戦」といわれた。当時の、この政府の決断をメディアも国民も支持した。

75年経った今でも支持する人は多い。彼らは声高に「愛国」を叫び、SNSには「中国や韓国、北朝鮮をやっつけろ!」、「日本から出て行け!」と勇ましい言葉が並ぶ。

「やむを得なかった」戦争。「聖戦」だった戦争。それらは事実だったかもしれない。しかし、この戦争がもたらしたのは悲劇しかない。それもまた動かぬ事実である。

私の母は生前、空からプロペラ機の音が聞こえると、「空襲のことを思い出して今でも怖い」と話した。

義父も生前、「空襲があって防空壕へ逃げるとき、米軍機の機銃掃射で、目の前にいた人がバタバタと倒れた」と話した。

女房の祖父はシベリアで強制労働をさせられた。運良く復員することができたが、生前、シベリアでのことはただの一度も話さなかった。

多くの同胞が亡くなった。未来ある、優秀な若者たちが数多く亡くなった。当時の政府の立ち位置からすれば「やむを得なかった」のかもしれない。でも、私は親兄弟を、子供を、大切な人を亡くした市井の人という立ち位置で戦争について考える。

やはり、戦争は悲劇しか生まない。

 

今月10日、長崎市に原爆が投下された日、ブログに7年前に某歴史雑誌で書いた元特攻隊員の手記を載せた。

nagoya-meshi.hateblo.jp

今回は、人間魚雷「回天」の元搭乗員の手記を転載する。前回と同様にかなりの長文になるが、戦争について考えるきっかけとなれば幸甚である。

 

坂本雅俊さん

1926年、三重県伊賀市生まれ。43年、三重海軍航空隊奈良文遺隊に入隊。44年、山口県大津島の第一特別基地隊に配属され、回天搭乗員となる。45年7月、伊五三潜水艦でフィリピンへ出航。その途中、爆雷の奇襲攻撃に遭う中で出撃命令が出たが、パイプが亀裂したために出撃できずに生還。戦後は米穀商を営む。

 

旧制中学の5年生のとき、予科練に行った3人の先輩から当時の戦局を聞きました。これからの戦争は歩兵や戦車の時代ではなく、飛行機でないと勝利することができないと思いました。5月27日は海軍記念日ですが、私の誕生日でもありました。その日に海軍航空隊に入隊しようと決意しました。

今で言うところのオリンピックの強化選手に選ばれるようなものですから、競争率は高かったですよ。陸上競技をやっていたので運動は得意でしたが、合格したときはそりゃもう嬉しかったです。一日も早く一人前になって、戦局の挽回に貢献したいと意気込んでいました。こうして昭和18年12月、三重海軍航空隊奈良文遺隊に入隊しました。

隊では苛酷な訓練が待っていました。体操や柔道、相撲…。カッター(ボート)もやりました。通信や手旗の訓練もありましたね。その間、飛行訓練はありませんでした。当時は練習機が足りなくて練習生全員を受け入れる体制もできていなかったんです。

8ヶ月が経った頃、教官や班長クラスの下士官を一切入れずに練習生だけが集められました。そこで上官が現在の戦況をこんこんと話してくれました。ミッドウェー作戦以来、各前線の島々は米軍に上陸され、玉砕していることを知りました。それまで新聞やラジオの情報を信じていたので、そこまで深刻な状況に陥っているとは思いもしませんでした。

このままでは本土に危険が及ぶことは容易に想像できます。若者が命を捨てて立ち向かわねばこの戦局を挽回することはできないと奮い立ちました。そこで上官から、この危機を乗り越えるための「新兵器」を開発したと聞かされました。

特攻であることや兵器の名前は一切言わずに「新兵器」とだけ。しかし、その場の雰囲気で特攻であることは何となく想像ができました。練習機に爆弾を積んで突っ込むのかなと。人間魚雷なんてものはまったく想像していませんでした。入隊した時点で生きて帰れないことは覚悟していましたし、もうこれは飛行機だけに頼ってもいられないと思って志願しました。

志願してから3ヶ月がたった頃、山口県の大津島にある訓練基地の第一特別基地隊に配属されました。そこで初めてクレーンで吊り上げられた回天を見ました。これに乗って突っ込むのかと思うと、正直ギョッとしました。中には「これがわしらの棺桶だ」なんて冗談を飛ばす仲間もいました。

回天の操縦席はかなり狭く、ハッチを閉められるとぼんやりと計器類が見えるだけで真っ暗でした。頼りになる特眼鏡(小型潜望鏡)も片目で見るため距離感がまったくつかめません。それでも初めて乗ったときは気持ちが高揚しました。

訓練では深度5、6メートルから海面すれすれまで浮上して特眼鏡で敵艦までの距離と角度を定めます。ゆっくり見ていると奇襲されてしまうため、一瞬で確認しなければなりません。時間にして10~15秒くらい。これが難しいんです。それに一つ操作を間違えたら、島にぶつかったり、海底に突き刺さったりして死ぬかもしれない。実際、下ろし忘れた特眼鏡が折れてしまって水没した事故を目の当たりにしたことがあります。

訓練が終わると、練習生と教官、整備関係者の全員が集まって今日の訓練の成果を発表するのが日課でした。私は1回目の搭乗訓練で7、80点くらいだったと思います。それで自信がつきました。

昭和20年6月の初め頃に出撃命令が出ました。それで3日間の休暇が与えられました。大阪まで陸軍のトラックに便乗させてもらって、京都を経て草津線で家に帰りました。予期せぬ帰宅に家族は驚いていましたよ。どの隊にいて、何に乗っているのか聞かれましたが、特攻隊にいるとは言えず、「俺が死んだら新聞に載るから」とだけ言っておきました。だから家族も今生の別れになると覚悟していたと思います。親兄弟と握手をして家を後にしました。

7月14日に回天を搭載した伊五三潜水艦でフィリピンをめざして出撃するわけですが、死は覚悟していたとはいえ、怖くないといえば嘘になります。それは同じ部屋で寝食を共にする仲間も同じで、「一瞬のことだ。痛くも痒くもない」と互いに励まし合いましたよ。軍歌を歌ったり、山へ登って軍刀で竹や木を切って死への恐怖感を紛らわしたりしたこともありました。出撃前夜は盛大に壮行会が開かれました。酒を酌み交わして軍歌を歌い、仲間と抱き合いました。泣いている仲間もいましたが、「七生報国」の精神で生まれ変わったらまた会おうと気勢を上げました。

7月24日に出撃した1号艇が米駆逐艦を、29日には3号艇が米輸送艦を撃破しました。私が出撃したのは8月4日でした。深夜12時頃に爆雷の奇襲攻撃を受けて、その爆音で目覚めたんです。至近距離で爆発しているので近くにあったものが全部吹っ飛んで落ちてきます。それだけならまだしも、あちこちから水が入ってきて、乗組員たちは必死で防水作業をしていました。

このまま潜水艦もろとも死ぬことに耐えられず、「回天で死ぬべく訓練を受けてきた。だから行かせてくれ!」と、艦長に強く発進を訴えました。深夜2時になり、ようやく「回天戦用意」の命令が出て潜水艦に残っている4基の回天をすべて発進させることとなりました。暗闇の中で同時に発進させると回天同士がぶつかって事故を起こしかねないため、間隔を置いて発進の命令が出ました。

ついに「6号艇発進」と、私が乗る回天の番号を告げられました。ところが、発動してもエンジンが回らない。爆雷の衝撃で酸素パイプに亀裂が入って酸素が漏れ出していたようです。艦内の気圧が上がって目玉が飛び出るかと思いました。「冷走(始動しない故障)」と、言った瞬間に気を失いました。

目を覚ましたときは士官室で寝ていました。助かったという気持ちと無念という気持ちが入り混ざった、何とも言いようのない気持ちが込み上げてきました。ふと、隣を見ると、2号艇に乗っていた高橋君が寝ていました。ああ、高橋君も出られなかったんだな、と思いました。そのときは互いに話しかける意欲も気力もありませんでしたが、高橋君は艦内に漏れたガスを吸って中毒を起こしたと後から聞きました。

潜水艦は100発以上の爆雷を浴びたそうで、よく沈まなかったと思います。8月9日にソ連が参戦したために、今度は日本海に向けて出撃せよとの命令が出ました。しかし、被害は甚大でそのままでは出撃することができません。そこで修理するために立ち寄った呉で終戦の玉音放送を聴きました。

そりゃ無念でしたよ。神国であるところの日本を護るために全身全霊を捧げていたわけですから。と、同時にもう少し終戦が早かったら仲間は特攻しなくてもすんだのにとも思いました。今でも回天の搭乗員に慰霊の祈りを捧げています。それが生き残った者の務めであると思っています。
 

坂本雅俊さんは、NHK『戦争証言・証言記録 兵士たちの戦争』のインタビューにもお応えになっています。

www2.nhk.or.jp