永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

靖国神社で「不戦の誓い」。はぁ?

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本人が自覚しようがしまいが、人というのは絶えず変化している。毎日、目や耳から入ってくる情報から、何がもっとも最良、最善なのかを取捨選択しながら生きている。だから、考え方が変わるのも珍しいことではない。

その点、政治家や芸能人は可哀想だと思う。何十年も前の発言を引っ張り出して、「この人はこんな考えを持っている危険人物である」とのレッテルを貼られる。twitterはその最たるもので、右左の思想に関係なく、ほぼ毎日そんなことが繰り広げられている。

「あれはミスリードだった」と、彼らが非を認めた上で詫びたとしても、世間を騒がせた発言の方が記憶に残ってしまう。石田純一なんて、いまだに「不倫は文化」発言をイジられるもんなぁ。気の毒である。

レッテル貼りをする人は、人は成長しないと思っているのだろうか。その人に対しても可哀想というか、哀れんでしまう。まぁ、レッテル貼りをして悦に入っているのだから、余計なお世話だとは思うが。

たしかに、初志貫徹の精神は大切である。が、目標を達成するための方法論は、時と場合によってどんどん変わっていくのは当たり前だし、変わっていかねばならないとさえ思う。

そう考えると、左右の思想が対立することは実に馬鹿げている。例えば、共産党。ネットの世界では、政権を批判しただけで保守思想を自称するヤカラから「お前は共産党か!」と、共産党という政党名が悪口に用いられる。

しかし、終身雇用や年功序列といった日本古来の、いわば保守的な政策を掲げているのは共産党だったりするから意味がわからない。かたや保守政党といわれる自民党や日本維新の会は、東日本大震災の原発事故によって故郷を失った人が大勢いるというのに、いまだに原発推進の立場にいる。保守というのは、いったい何を保ち、守るのか。さっぱり私にはわからない。

まさか、保守を自称する人たちは、靖国神社に参拝さえすればすれば、保守思想の持ち主だと思っていないだろうな。私が政治家だったら、保守派へのPRのために、いや票集めのために8月15日は必ず参拝に行く。そして「靖国神社参拝は、日本人として当たり前だ」くらいの勇ましいコメントをする。オレって本当にイヤラシイ(笑)。

靖国神社参拝が目的ではなく、オノレが保守であることをPRする手段になってしまっているのである。それを英霊たちはどう思うだろうか。どうしても終戦の日に「不戦の誓い」を立てたいならば、皇居へ行き、

天皇陛下の前で誓うべきである。または終戦の御聖断をされた

昭和天皇が祀られている武蔵野陵で誓うべきである。

陛下に感謝の祈りを捧げ、

陛下の大御心をわが思いとするのが政(まつりごと)を任された者としての務めではないのか。

そもそも、靖国神社は国のために戦い、命を失った人たちを「顕彰」するために建立された神社であり、これから戦争に行き、敵と戦うために武運を祈るための神社でもある。いくら何でも政治家たちもそれくらい知っていると思う。

にもかかわらず、「不戦の誓い」をするのはまったく筋違いの話なのである。靖国参拝を政治問題にしてメディアがとりあげるから、いつの間にか英霊たちへの慰霊と感謝の祈りを捧げるための神社になってしまったのだ。

まぁ、それでもよかろう。でも、わざわざメディアや右翼、左翼が多く集まる終戦の日に行くのはポーズとしか思えない。「行かないよりは行った方がマシ」という意見もあるだろう。が、「マシ」という言葉の奥に中国や韓国、左翼勢力への対抗心が垣間見える。

祈りとは誰かに対抗して行うものではない。神と、オノレ自身と向かい合うことである。今年の終戦の日に参拝した小泉環境大臣は、8月15日以外の、何でもない日に靖国神社に参拝しているのだろうか。誰か調べてくれ。

おっと、だいぶ話が逸れてしまったな。政治家に求めるのは、政策という人もいる。しかし、政策は方法論ゆえに変わることもある。そんな不確定なものよりも、政策の先にある世界をどのように考えているのかがいちばん大切だと思う。野党に支持が集まらないのはそこにあるのではないか。

政治家であるならば、理想を語れ。この国のグランドデザインを語れ。私はそれが聞きたい。