永谷正樹のなごやめし生活

「なごやめし」について書き綴ります。

フリー生活25周年。

f:id:nagoya-meshi:20200924235823j:image

写真専門学校を出てから就職した広告制作会社は社長が元銀行員だったこともあり、実に会社らしい会社だった。給料は手取りで11万5千円。車のローンを払って、週に1回飲みに行ったら、給料はなくなった。

勤務は朝9時から夕方6時まで。完全週休二日制。給料はすずめの涙だったが、環境的には悪くはなかった。しかし、私にとっては、窮屈以外の何ものでもなかった。自由に、伸び伸びと仕事がしたかった。

クライアントが第一の広告の世界に嫌気がさして転職した編プロでは、風俗やキャバクラなど、今で言う“夜の街関連”が主な取材対象だった。

風俗嬢を取り巻く人たち、ホストやヤクザ、悪徳金融業者も身近な存在であり、当時23歳の若造にとっては、社会の裏側を見ているようで、毎日がとても刺激的だった。

この編プロでは写真だけではなく、文章も書くようになった。編集部に企画を送って、仕事を受注するスタイルも気に入っていた。

仕事そのものに不満はなかったが、時間がほしかった。自宅と編プロの往復ばかりの毎日を過ごしているのに、次から次へと企画を生み出していかねばならないことに矛盾を感じていた。

そして、25年前の今日、私は編プロを辞めた。会社勤めをしたのは、わずか5年半。ゆえに世間知らず、常識知らずのままフリーとなった。

とにかく、時間がほしかったので、フリーになったとはいえ、仕事のアテはまったくなかった。仕事をしてみたいと思う雑誌を買い込んで、裏表紙に書かれている編集部の電話番号に片っ端から連絡をした。

「名古屋でカメラマン、ライターとして仕事をしています。是非、ご挨拶に伺わせていただきたいと思いまして」と話すと、99.9%は会ってくれた。そのときに門前払いをされていたら、今の自分はないと思う。

企画を何本か通して、信頼関係が生まれると、編集部から仕事を依頼されるようになった。世間知らず、常識知らずの私によくもなぁ、仕事を振ったものだ。まだ当時は、出版業界に若手のカメラマンやライターを育てる気風みたいなものがあったように思える。今の自分があるのはそのおかげでもある。

そりゃ25年もやっていれば、良いときもあれば悪いときもある。辞めようと思ったこともあったし。でも、自分に写真を撮ったり、文章を書いたりする以外に何ができるのか?と考えて思い止まった。

それにしても、なぜ、25年間も続けてこられたのだろうか?それは、誰かに尻を叩かれているわけでもなく、自由に、マイペースに仕事をしてきたからにほかならない。前にも書いたが、私は家族が暮らしていくために仕事をしているのではない。

すべて自分のためである。と、書くと語弊があるな。儲けたお金は全部オレのもの!ということではない。金儲けなんぞ興味はない。お金は家族が好きに使えばよい。何度も書いているが、東京のメディア関係者に「ナゴヤにナガヤあり」と言わしめるためだ。それに尽きる。

25年間、本当にいろんなことがあった。でも、あの頃は良かったと感傷に浸ることはしない。今がいちばん良いと思っているからだ。今がいちばん良いと思うことができたら、5年後、10年後の未来も良いと思えるはずだ。

今日からフリー生活26年目に突入する。これからも自由に、マイペースに仕事をしていく。皆様、今後ともよろしくお願いいたします。なお、フリー生活25周年のお祝いは、来年9月24日まで受け付けます(笑)。どなたかお祝いしてください(笑)。