永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

狭量。

ライターという仕事柄、いろんな人と会って話をする。その際、相手の考えや生きざまなどを理解することに努める。たとえそれが私の考え方と違っていたとしても。そもそも、まったく同じ考え方を持つことなんてあり得ない。赤の他人同士は言うまでもなく、家族でさえも考え方が違っていて当たり前。10人いたら、10通りの考え方があるのだ。

「価値観が同じ」というのも、100%まったく同じということではなく、相手のほんの一部分に共感し合っているということ。と、こう書くと、「ナガヤは冷めている」とか「ナガヤは冷たい人間だ」、「ナガヤなんて死ねばいいのに」と思われるかもしれない(笑)。

いや、私の人格は別として、人それぞれに考え方が違うから、すばらしいのだ。考え方が違うから、理解し合おうとする。理解し合えなかったとしても、それぞれの考えを尊重し合う。そこに価値があるのだ。

ところが、多くの人々が幸福に生きることを使命としているはずの政治や宗教の方がむしろ狭量な考え方をしているように思う。

それを最も端的に表しているのが、安倍首相と彼を熱狂的に支持している人たちではないか。3年前、東京都議選の応援演説で「帰れ!」、「辞めろ!」コールを浴びた安倍首相(当時)は「こんな人たちに皆さん、負けるわけには行かない」と言い放った。

ニュースでそれを見たとき、私は言葉を失った。政治家は国民の話を聞くのが仕事のはずなのに、堂々と国民の分断を煽っているのである。しかも、一国の指導者が。

さらに、その翌年、札幌での参議院選挙の応援演説中にヤジを飛ばした男性と、プラカードを掲げようとした年配の女性がそれぞれ警察官に排除された。この日、少なくとも9名は同じ理由で排除されたという。

youtu.be

この問題をHBC(北海道放送)は『ヤジと民主主義』というドキュメンタリー番組を制作して、世に問いかけている。46分と長いが、是非、見ていただきたい。

この動画を見たとき、背筋が凍えた。日本はいつから独裁国家になったのかと思った。「ヤジを飛ばしたのだから、プラカードを掲げたのだから排除されるのは当たり前」という意見もあるだろう。しかし、ヤジを飛ばすこともプラカードを掲げることも違法ではない。

実際、「なぜ、彼らを排除したのか」と説明を求める弁護士団体や市民に対して、道警は「ヤジの排除は適切だった」としかコメントをしていない。安倍政権の継承を掲げている菅首相や閣僚もバカのひとつ覚えの如く、「コメントを差し控える」を連発している。政治への不信感は強まる一方である。

断っておくが、ここで触れているのは、安倍前首相や菅首相の政策を批判しているのではない。民主主義で最も大切な「言論の自由」に対して、国家が圧力をかけているのではないかとの疑問を呈しているのであり、思想の右や左は関係ない。

安倍前首相や菅首相を批判しただけで「左翼だ!」、「売国奴だ!」とレッテルを貼る彼らの支持者もまた狭量な考え方をしていると思う。

それは宗教も同じで、ずいぶんと前になるが、ある雑誌の依頼で某県にある某宗教団体の墓地の撮影に行ったことがある。

墓地へ行くまでの狭い道の両側には壁があり、某宗教団体と敵対する宗教団体が互いに誹謗中傷し合うビラが大量に貼られていた。中には「◯◯へ入ると地獄へ落ちる」などとおよそ宗教とは思えない過激なものもあった。

「◯◯へ入ると地獄へ落ちる」とは言い換えれば、「脱会しなければ救われない」、「◯◯に異を唱えるウチに入会しなければ救われない」ということになる。これはもう、狭量どころか増上慢の極み以外の何ものでもない。

そもそも、墓地を利用しているのは、その某宗教団体の信徒である。私が信徒だったら、その道を通るたびに嫌な思いをする。と、いうか、その状況がそのまま地獄ではないのか。でも、たぶん、中にいる信徒は、それぞれの正義を信じているから、中傷ビラに共感したりするのだろう。そこに宗教の怖さがある。

私自身、生きていく上で信仰心を持つことは大切であると思っている。が、狭量な教えに基づいて徒に危機感や不安を煽って入会、脱会をさせる行為は最低最悪だ。