永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

議論下手。

日本人は諸外国の人々と比べて議論が下手だといわれている。東京都知事選が始まり、テレビを注意深く見ていて、それを余計に思い知らされた。

議論からいつの間にか人格攻撃へと変わっていき、本質の部分がまったく見えなくなることもある。議論においていちばんやってはいけないことではないのか。

しかも、人格攻撃を番組のMCやコメンテーターが扇動しているような状況に誰も何もいわない。むしろ手を叩いて笑っている姿に危うさを感じた。それがX(旧Twitter)に飛び火して、便所の落書きのような悪口が何度も何度も繰り返しモニターに表示される。

とくにネット上の議論は、極論VS極論になりがちなので、いつまで経っても平行線のまま。ゆえにヘイトや人格攻撃へとエスカレートしていく。

意味がわからないのは、「◯◯は✕✕を支持しているから」というだけで敵視すること。そういう人たちは実生活でも同じことをしているのだろうか。

かなり前に台湾出身の評論家、金美齢さんの講演会へ行った。そこで彼女は「チャイナ・フリー」、つまり、中国産の原材料を使用したものは一切使わないし、口にしないし、身に着けない生活をしていると話した。

それは彼女ほどの財力があれば可能かもしれない。そこまで反中を徹底している彼女をある種尊敬するが、一般人にはとてもムリだろう。

私は統一協会の信徒だろうが、創価学会を熱心に信仰していようが、共産党の活動をしていようが、右翼の街宣車に乗っていようが、その人に人間的な魅力があれば付き合う。その人の思想信条を条件にはしない。

そもそも議論とは相手を言い負かせて論破することなのだろうか。平行線であれば、平そうなったことが議論の結果だろうし、人格攻撃へシフトする必要はない。議論する中で少しでも賛同したり、共感したりできる部分があるかもしれない。そこに議論する意味があるのではないのか。

「お互いによい議論ができてよかった」と日本人同士が握手する姿を見てみたいと思うのは私だけだろうか。