永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

寒い季節は名古屋のご当地鍋「鶏の味噌鍋」で身も心もポッカポカ

鍋が美味しい季節である。鍋料理と聞いて、皆様は何を想像するだろうか?博多のもつ鍋や下関のフグちり、秋田のきりたんぽ鍋、京都の湯豆腐などなど、全国にはさまざまな鍋がある。名古屋でメジャーな鍋といえば、鶏の味噌鍋だろう。

私が初めて食べたのは、15年ほど前。名古屋を訪れた編集者に連れて行ってもらった『鳥久』だった。店は納屋橋の近くの堀川沿いにあり、江戸時代後期から明治時代にかけて建てられ、多くの文化人も訪れた名店である。

編集者の目当ては『鳥久』の名物「鶏の味噌炊き」。熱が伝わりやすい銅製、それもピカピカに磨き上げた鍋に鶏ガラスープを注ぎ、独自に調合した豆味噌を溶く。鍋に入るのは、鶏のモモ肉やムネ肉、つくね、肝、きんかんなど。煮込むほどに具材は真っ茶色に染まる。が、味噌がしっかりと染みた鶏肉の旨いこと!

鶏肉や野菜をひと通り食べ終わってもまだまだ楽しみが続く。それは、鍋にこびりついた味噌を箸でこそぎ落とし、それをナメながら日本酒をちびりとやるのだ。これを至福のひとときと言わずして、何と言うのだ。〆は名古屋らしく、きしめん。これもタラタラになるまでしっかりと煮込み、味噌をこれでもかというくらいに染み込ませる。そして、これをオン・ザ・ライスで食すのだ。炭水化物×炭水化物じゃないかって?旨けりゃ、それでイイのだ。

『鳥久』に初めて訪れてから、ずいぶんと経った頃、『鳥久』の所有者は経営悪化から閉店を決めた。そして建物を解体して跡地にマンションを建て替えようと市に工事の許可を申請した。ところが、河村たかし名古屋市長がそれに「待った!」をかけた。「歴史的価値の高い建物を壊さずに残してほしい」と、主張したのだった。

所有者と河村市長の対立が続くなかで、'14年11月午前3時半ごろ、『鳥久』から出火、木造2階・地下1階の建物はほぼ全焼した。この火災の原因についてはいまだに不明である。『鳥久』に行ったとき、「鶏の味噌炊き」のあまりの美味しさに写真を一枚も撮影できなかったことが悔やまれる。

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ただ、名古屋市内にはまだ美味しい「鶏の味噌鍋」を食べさせてくれる店はまだ沢山ある。『鳥久』からほど近い『宮鍵』も私のお気に入りの店の一つだ。「鶏の味噌鍋」(写真)は、「かしわ味噌すき」と呼ばれ、三河赤鶏のモモ肉や砂肝、せせりで作ったつくねなどが入る。

「鶏の味噌鍋」は、どちらかというと家庭料理ではなく、店で食べるものであると私は認識している。ただ、ほかの「なごやめし」に比べて高価な上、鍋料理ゆえに冬のイメージがあるため、まだまだ知名度が低い。この時季に名古屋へ来られることがあれば、是非、「鶏の味噌鍋」で身も心もポッカポカになってほしい。

名古屋の旅で食べ損ねた「なごやめし」をフォローできる駅弁

お正月休みということで、帰省や旅行で名古屋へ訪れている方も多いと思う。電車での旅の楽しみといえば、駅弁。車窓からの景色を眺めながら、その土地の名物を詰め合わせた弁当を肴に缶ビールをグビリ。これ以上の贅沢はないだろう。

フリーカメラマン兼ライターという仕事柄、私は電車の旅が多い。ひと仕事を終えて、電車に乗り込むときにその駅の名物駅弁を買って食べるのを楽しみにしている。しかし、種類が少ないのである。全国から旨いものが集まる東京駅は別として、大半の駅では幕の内弁当以外の名物駅弁が2,3種類くらいしかない。つまり、駅弁にできるような名物そのものが少ないのだ。

一方、名古屋駅には、名古屋コーチン味噌かつ、エビフライ、天むす、ひつまぶしなど、ありとあらゆる「なごやめし」の駅弁が揃。どれにしようかと迷うほど種類が多い。しかも、駅弁とはいえ、地元の駅弁メーカーが研究に研究を重ねて作り上げているので、どれもレベルが高い。名古屋での旅で食べ損ねた「なごやめし」を十分にカバーできるだろう。

 名古屋の駅弁メーカーは『松浦商店』『名古屋だるま』の2社。いずれも、JR・近鉄名古屋駅構内で販売している。大正11年創業の『松浦商店』は、明治時代に大須で営んでいた料亭がルーツ。それゆえに焼き魚や煮物、だし巻き卵を詰め合わせた幕の内弁当には定評がある。「なごやめし」の弁当も幕の内弁当をベースにしたものが多く、食材や調味料にこだわり、地元で昔から親しまれた味を追求している。

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この「天下とりご飯」は昭和12年の発売した「親子めし」がルーツの大ベストセラー。鶏のダシで炊き上げたご飯に鶏と卵のそぼろを敷き詰めたとりご飯は『松浦商店』の自信作。チキンカツや鶏肉の磯辺揚げ、つくね串など、鶏づくしのおかずもていねいに作られている。

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次は「名古屋おもてなし弁当」。鰻まぶしご飯と天むす、あんかけスパ味噌かつ、エビフライなど「なごやめし」が一度で味わえる弁当だ。注目すべきは、左上の煮物の中に入るかまぼこ。

かまぼこを縁取る色は全国的にピンク色が一般的だが、名古屋では朱色が主流なのだ。その発祥については、織田信長が朱色を好んで使用していたからとか、さまざまな説があるものの、はっきりと判っていない。ただ、ハレの日に用いられる朱色は、名古屋人にとって金色に次ぐ人気カラーの一つであることは間違いない(笑)。豆味噌やたまり醤油を使っているせいか、「なごやめし」の多くは茶色であり、朱色のかまぼこをのせることで見た目がイッキに華やかになるという実用的な意味もあるだろう。

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最後は「ひつまぶし弁当」。1380円('17年1月現在)と駅弁では高級な部類に入るが、庶民にとって高嶺の花となったひつまぶしがこの値段で食べられると思えばむしろ安い。実はこの弁当、最近リニューアルしたばかり。三河一色産をはじめとする国産鰻はそのまま。従来品はお茶入りのふりかけが添付されていたそうだが、本物のだし汁と薬味のワサビ、山椒も付いて、より本格的な味わいに。冷めていても、十分に楽しめる。

もう一つの駅弁メーカー、『名古屋だるま』は常時20種類揃う商品のなかで実に7割が多種多彩な「なごやめし」。食材にこだわっているのはもちろん、味付けも地元の専門店と同じどころか、それ以上のクオリティ。それだけにお土産代わりに購入する客も多いという。

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『名古屋だるま』でいちばん人気は、この「純系名古屋コーチン とりめし」。名古屋コーチンは、「なごやめし」のなかでもかなり高価。専門店で焼鳥や唐揚げ、鍋のコースを食べると1万円は覚悟せねばならない。そのため、地元でも食べたことがない人がいるほどだ。名古屋の旅で食べ損ねた、というか予算の都合で食べられなかったコーチン料理を駅弁でフォローできるのはウレシイ。

さて、この「純系名古屋コーチン  とりめし」は名古屋コーチン協会の認定商品。コーチンのだしで炊き上げたご飯の上にジューシーな名古屋コーチンのモモ肉がどーんとのる。見た目は実にシンプルだが、ご飯の一粒一粒にギュッと凝縮されたコーチンの旨みが頬張るごとにじんわりと広がる。不動のナンバーワンというのも納得だ。

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『名古屋だるま』は、豆味噌を使った弁当も定評がある。こちらは味噌ダレのベースに『まるや八丁味噌』を使った「だるまのみそかつヒレ重」。弁当のヒレカツはパサついた、残念な食感になりがち。しかし、こちらはしっとりとした食感。

特筆すべきはやはり味噌ダレのクオリティだ。しっかりと衣に染み込んだ味噌の味や香りはまさに地元の味。ただでさえ旨いのに、半熟卵を付けるという名古屋人にはたまらないツボをしっかりと押さえている。是非、卵と絡めて食べてもらいたい。

今回紹介したのは、「なごやめし」の弁当のなかでもほんの一部。駅構内の売り場でさんざん迷い倒すのもまた、旅のよき思い出になるだろう。それでは、よい旅を!

派手好き名古屋の地味すぎるお雑煮

高校卒業後に進学や就職のために地元を離れたという方は多いと思う。しかし、名古屋では少数派。有名進学校は別として、私の高校時代では卒業後に地元を離れたのはクラスで2,3人程度だったと思う。なぜなら、大学や専門学校は沢山あるし、製造業をはじめとする企業も数多くある。

親兄弟や親戚、友人も近くにいるので地元での暮らしはラクなことこの上ない。しかし、地元以外の文化に接することがないために弊害も少なくはない。東京や大阪からすれば特異に見えることでも名古屋ではごく当たり前だったりするのだ。視野が狭いのである。かく言う私も地元を離れたことがない。18歳まで豆味噌で作る赤だしがグローバルスタンダードだと思っていたほどである(笑)。逆にその視野の狭さこそが全国でも類い希なる食文化を育む土壌が生まれたのだが。

前置きが長くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。ブログをはじめてから、わずか1ヶ月そこそこですが、多くの方々に読者になっていただいたり、はてなスター(よく意味がわかっていません・笑)をいただいたりと本当にありがたく思っています。毎日、仕事の合間にコツコツと記事を書くのは大変ですが、皆様の反応が大きな励みになっています。「『なごやめし』なら、このブログを見ろ!」といわれるようになるのを目標に、今年もガンガンに記事を更新してまいります。よろしくお願いいたします。

さて、元旦ということで、今回はお雑煮の話をしよう。名古屋城金のシャチホコを代表されるように、名古屋人は派手なことが大好き。とくに結婚式などハレの日にはここぞとばかりにお金を使いまくり、豪華絢爛な演出で客をもてなす。そんなことから、ハレの日であるお正月に食べる雑煮はさぞかしゴージャスなのでは?と思う方も多いだろう。

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これが、わが家のお雑煮。生まれてからずっと、お正月はこのお雑煮を食べてきた。家によっては、この上に花がつおをかけたりすることもあるが、大差はないと思う。鰹だしにしょうゆを合わせたシンプルなつゆに入るのは、角餅ともち菜のみ。もち菜は、古くから尾張地方で栽培されている「あいちの伝統野菜」で正月菜とも呼ばれている。小松菜と似ているが、小松菜よりも色が淡く、やわらかくてほのかな甘みがあるのが特徴だ。

それにしても地味である。おそらく、日本一地味なお雑煮だろう。派手なことが大好きな土地柄なのに、いったいこれは何なんだ。赤だしにも使用する豆味噌や農業が盛んな渥美半島知多半島の野菜、三河湾で獲れる魚介をふんだんに使った、超ゴージャスなお雑煮であってもおかしくはないのに。でも、やっぱり、お雑煮はシンプルなのがいちばんだと思う自分もいる。野菜や鶏肉がゴロゴロ入っていたり、味噌仕立てのお雑煮はちょっと考えられない。

この名古屋のお雑煮の地味さ加減について調べてみたところ、下記の通り、さまざまな説があることが判った。

1.徳川吉宗ブチキレ説

祭りや芝居が大好きな江戸時代の尾張藩の殿様、徳川宗春が、質素倹約で幕藩体制の立て直しを図ろうとしていた徳川吉宗に叱られたのがきっかけに雑煮も質素になったという説。

2.エライさん(名古屋弁でVIP)になりたい説

もち菜の「菜」を「名」に掛けて、餅と一緒に持ち上げて食べることで「名を上げる」、つまり、出世してエライさんになるというゲン担ぎであるという説。

いずれも、それなりに説得力はあるものの、これらには明確な根拠がないという。ただ、どんな説であれ、名古屋の雑煮が地味である点は揺るぎない事実である。が、すばらしい部分も多々ある。まずは、シンプルゆえに餅の美味しさがストレートに伝わるということ。これは絶対の自信がある。

わが家ではだいたい1月末くらいまでお雑煮を食べる。その理由は、餅ともち菜さえあれば簡単に作れるからだ。一方、鶏肉や多くの種類の野菜が入るお雑煮はそういうわけにはいかないだろう。だから、1月末くらいまでお正月気分が味わえるのもウレシイ(笑)。さて、これからお雑煮を食べて、お正月をのんびりと過ごそう。

エビフライはタモリさんの名古屋イジリから脱却すべし!

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「なごやめし」の一つとして定着しているエビフライ。エビフライはわざわざ名古屋に来なくても、どの地域でも食べることができるのだが、エビフライ=名古屋というイメージが広がったのは、30年以上前。今や大御所タレントのタモリさんが「名古屋の人はエビフライをごちそうだと思っている」と、テレビやラジオでさんざんイジリまくったのがきっかけだった。しかも、ご丁寧に「えびふりゃ~」と名古屋弁に変換して(笑)。

新聞や雑誌、テレビなどのメディアを通じて、タモリさんに真っ向から反論する人はいなかったと私は記憶している。当時、私は中学生くらいだったが、別にエビフライをごちそうだとは思っておらず、「ずいぶん偏っているな」としか思わなかった。ただ、エビフライが好きか嫌いかと聞かれれば、「好き」であることには間違いないが。私の父は西区城西、母は大津橋で生まれ育った生粋の名古屋人で、河村たかし名古屋市長のようなコテコテの名古屋弁だったが、両親の口から「えびふりゃ~」という言葉は一度も聞いたことがなかった。

ある日突然、有名タレントのひと言によって、たとえそれがバッシングであっても、名古屋が注目を集めたわけである。それをチャンスと捉え、名古屋名物として大きなエビフライを出す店が増えて、名古屋名物として認知されたのだ。

ちまみに愛知県の県魚は車エビ。三河湾産の車エビは東京の高級料亭や寿司店でも使われるほど質が良く、全国屈指のブランドである。車エビに限らず、その昔、三河湾では多くのエビが沢山獲れたらしい。西尾市一色町の「えびせんべい」は、明治時代半ばに獲れすぎたアカシエビを主原料として全国で初めて作られたという。このように、名古屋とエビはもともと深い関係は深いのだ。

しかし、いつまでもタモリさんが名古屋をdisったことをエビフライが「なごやめし」である根拠にしていてよいのだろうか。もっとほかの、良い部分を自主的に発信していくべきではないのかと思うのである。

仮に私がエビフライやエビ料理をPRするとしたら、エビが「腰が曲がるまで長生きできるように」と長寿を願う縁起物であることに着目する。「誕生日には縁起の良いのエビを食べよう!」というキャンペーンを展開するのだ。もちろん、子どもの誕生日祝いでもよいが、親の誕生日の方が望ましい。エビフライ以外にも車海老のお造りや塩焼き、天ぷらなどエビづくし料理のコースを用意するのである。

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写真は名古屋市の隣町、あま市のエビ料理専門店『花菖蒲』の「ぷりぷり海老コース」。お造りからはじまり、ミニ鉄板焼きや天ぷら、唐揚げ、塩焼きと5種類のエビ料理が楽しめる人気のコースだ。ここはエビ料理を縁起物として売り出しているわけではないものの、週末には家族連れの客で賑わっている。

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実は冒頭のエビフライの写真もここのメニュー。大ぶりなエビフライ2本とホタテ貝柱フライのほか、刺身やサラダ、デザートなども付いてボリューム満点。また、熱々の石焼き鍋にやや大ぶりなおにぎりと刺身用のホタテ貝柱、そして店内の生けすで直前まで生きていた車海老を入れて、その上からだし汁をかけて食す「石焼き丼」(写真)もココの名物だ。

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エビ料理のPRについてもう一つアイデアを。まず写真を見ていただきたい。名古屋市中区千代田にある蕎麦の名店、『春風荘』の「特製天おろし」である。ご覧の通り、“逆エビ”にした海老天がちょこんとのっている。この様は名古屋城天守閣で燦然と輝く金のシャチホコに見えなくもない(笑)。カレーうどんなどにエビフライを2本刺すよりもよっぽどリアルである。このようにエビ天なりエビフライを“逆エビ”にして、金シャチに見立てた丼やうどんにして売り出すのだ。これは地元の客よりも観光客にウケると思うが、いかがだろう?

モヤシ入り台湾ラーメンから伝わる名古屋のクラフトマンシップ

2年前に放映されたドラマ『LEADERS リーダーズ』を憶えているだろうか。来年3月に続編も放映されるようだが、国産自動車に人生をかけたトヨタ自動車創業者、豊田喜一郎を描いた物語である。外国車をバラバラに分解して、パーツの一つ一つを研究・分析するシーンが印象に残った。それはニコンキヤノンなど国産のカメラも同じで、戦後に外貨獲得のための国策としてドイツ製の「ライカ」を真似て作ったのがはじまりだ。今では自動車にしろ、カメラにしろ、日本の製品はかつてモデルとした外国製よりも高性能となり、世界を席巻している。

『LEADERS リーダーズ』を見たとき、私はふと、台湾ラーメンのことが頭に浮かんだ。以前にも書いたが、台湾ラーメンの発祥は今池の台湾料理店『味仙』である。台湾ラーメンが注目を集めるようになると、多くの店がこぞって『味仙』を真似て台湾ラーメンを作った。これが結果的に台湾ラーメンを広めることになり、『味仙』が発祥の店としてその名を轟かせることにもなった。ちなみに『味仙』は台湾ラーメンを商標登録していない。今もしようとは思っていないという。実にすばらしい決断である。

『味仙』の台湾ラーメンの具材は、ニンニクと唐辛子で味付けした台湾ミンチとニラのみ。ゆえに、麺をすすったと同時に暴力的ともいうべき辛さが口の中で大暴れする。これが醍醐味だという人もいるかもしれないが、私はこれが苦手なのだ。

真似た店がいくら頑張っても発祥の店の名を冠することはできない。しかし、味に関しては後発組だけにいろんなアレンジができるというメリットもある。私が着目したのは具材に台湾ミンチとニラ以外にモヤシを入れた店があるということ。ここに名古屋のクラフトマンシップを感じざるを得ないのだ。

『LEADERS リーダーズ』で外国車を徹底的に研究・分析することでそれを超えたように、すでに味も知名度も完成している『味仙』の台湾ラーメンへの差別化がモヤシだったのではないかと私は勝手に想像している。まあ、熱烈な『味仙』ファンにとっては、台湾ラーメンにモヤシを入れるのは邪道かもしれないが。

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写真は守山区にある台湾ラーメンの有名店『江楽』台湾ラーメン。ご覧の通り、ここも具材にモヤシを採用している。しかも、麺が見えないほどたっぷり。麺とともにモヤシとニラを口に入れると、口の中で辛さを感じるまでにわずかなタイムラグが生まれるのである。このタイムラグが重要で、1秒もないほどわずかな時間でスープの旨みと台湾ミンチから染み出した肉の旨みが一体となってふわっと広がり、その後に辛さがじんわりと広がるのだ。これがモヤシ入り台湾ラーメンの醍醐味だろう。

では、台湾ラーメンをさらにアレンジした台湾まぜそばはどうか。『らーめん まぜそば てっぺん』『麺屋やまひで』『らーめん まぜそば あらし』など発祥の店である『麺屋はなび』のオマージュはあるものの、いまだに元祖を超えるアレンジをした店は少ないと思う。

『麺屋はなび』の新山直人社長は、台湾まぜそばを「新なごやめし」と呼んでいる。'08年にメニュー化されたので、数ある「なごやめし」のなかでも新しいのは紛れもない事実だ。『麺屋はなび』を超える店が現れたとき、台湾まぜそばは「新」がとれて「なごやめし」として定着するのではないか。

きしめんといもかわうどん2

いもかわうどんを再現しているのは、刈谷市一ツ木町にあるうどん店『きさん』。詳しく話をうかがう前にまず、いもかわうどんの麺を見せていただいた。

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これがいもかわうどんである。平打ちなのはきしめんと変わらないが、最大の違いは色。きしめんは真っ白だが、やや黄色がかっているのだ。これもまた店主による推測が基になっている。

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「いもかわうどんは平打ち麺であること以外は判っていません。江戸時代、塩はたいへん貴重なものでしたから、塩水は使えないのではと考えました。だから味噌煮込みうどんと同様に小麦粉と水のみで打ちました。また、今のように製粉技術も進んでいなかったでしょうから、あえて小麦の皮のギリギリまで使い、粗く挽いた全粒粉も使っています。麺が真っ白ではなく、やや黄色いのはそのためです」と、店主の都築晃さん。

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話を聞いているうちに、どうしてもいもかわうどんが食べたくなった。で、作っていただいたのがこの「キジメン」だ。そう、きしめんの名前の由来である「雉麺」説に基づいてメニュー化したそうだ。

以前は本当に雉肉を使っていたそうだが、入手が困難となってしまったため、現在は鶏肉を代用している。たまり醤油を使ったつゆのまったり感と噛むごとに小麦粉の味と香りが広がるいもかわうどんは絶妙な組み合わせ。いやぁ、旨い!

「たまり醤油やみりんは三河産のものを使っています。本来ならば、小麦粉も地元のものを使いたいのですが、なかなかそれが難しくて県内産の小麦粉『きぬあかり』と北海道産の強力粉、国産全粒粉をブレンドしています」(都築さん)

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麺そのものの素朴な味を楽しむには「ざる芋川うどん」がオススメだ。小麦の皮、いわゆる「ふすま」が入った麺はザラザラとした舌触り。厚みもあるので、すするよりもしっかりと噛んで野趣溢れる味わいを堪能したい。

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こちらは「味噌煮込み芋川うどん」。実はこれこそが都築さんがイメージするいもかわうどんに最も近いものだという。

尾張三河を隔てて流れる境川三河側、現在の刈谷市北部が三河国芋川にあたります。江戸時代、芋川にあった茶店で売られていた平打ちのうどんがいもかわうどんとよばれていたようです。今のように茹でた麺とつゆを合わせるのではなく、大量の麺をつゆとともに大鍋で煮込んでいたのではと思います。また、岡崎の八丁味噌をはじめ、三河地方は豆味噌が身近な調味料ですから、当時は味噌鍋にいもかわうどんを入れて提供していたのではないかと。もちろん、推測の域は出ませんが」(都築さん)

フーフーしながら、ひと口食べてビックリ!八丁味噌ベースのつゆがいもかわうどんの小麦の味と風味を見事なまでに引き出しているのだ!目を閉じて食べると、江戸時代の街道を行き交う人々の賑やかな声が聞こえてきそうだ。

都築さんによると、現存する書物でいもかわうどんが登場するのは、1658年に浄土真宗の僧侶で仮名草子作家の浅井了意(あさい りょうい)が神社仏閣名所旧跡を訪ねながら江戸より宇治までの旅を記した『東海道名所記』が最古。

1658年といえば、江戸初期である。一方、きしめんは前にも書いた通り、江戸末期から明治初期にかけて今のスタイルを確立されていた。約200年以上の時を経て、三河で生まれたいもかわうどんが名古屋へ伝わったとしてもおかしくはない。そんなことを考えながら食べるのもまた楽しい。

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数ある「なごやめし」のなかで最も古いのが、きしめん。平打ちした麺をたまり醤油を使ったつゆにホウレン草などの青菜、煮揚げ、花がつおを盛り付けたスタイルは江戸時代の終わりから明治時代初期には確立されていたらしい。きしめんは、今も昔も大衆のために、大衆の手によって育まれてきたせいか、具体的に記録した書物がほとんど残っていないのである。

10年ほど前、一宮市で喫茶店のモーニングサービスの発祥の店を探したことがあった。市内で古くから営業している店を3日間かけて訪ね歩いてみたものの、写真や資料は見つからなかった。ある老舗喫茶店のマスターから重要な証言を得たので、それを根拠に一宮市を発祥の地とした。このように、大衆文化はきちんと記録されていないことが多い。

とくに「きしめん」という名前の由来は、さまざまな説があって、どれも定かではない。これはメディア等でもさんざん採り上げているのでご存じだと思うが、念のため以下に紹介する。

1.「雉麺」説

江戸時代、尾張藩の殿様が雉(きじ)肉入りの田舎うどんを好んで食べたことから、「雉麺」がなまって「きしめん」になったという説。きしめんに入る油揚げはその名残ともいわれる。

2.「紀州麺」説

紀州藩の殿様が尾張藩の殿様にお土産として献上した麺が「紀州麺」と呼ばれ、いつの間にかそれが転じて「きしめん」になったという説。

3.「棊子麺(けしめん)」説

「棊」とは「墓石」のこと。平たく延ばした生地を竹筒で墓石の形に抜いた、丸い墓石の形をした麺が中国から伝来し、後に平たくて細長い麺になっても名前はそのまま残ったという説。

その一方で、井原西鶴の『好色一代男』や十返舎一九の『東海道中膝栗毛』といった江戸時代の超メジャーな書物に「いもかわうどん」なる平打ちのうどんが出てくる。その地は尾張国(現在の名古屋)ではなく、三河国芋川(現在の刈谷市北部)。

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その場所へ行ってみると、旧街道を思わせる古い街並みが残っていた。その一角に碑を見つけた。そこには、「旧『芋川』の地 ひもかわうどん発祥の地」と書かれてあった。「ひもかわうどん」といえば、幅広麺を使った群馬県桐生地方の郷土料理。幅は狭いもので1.5cm、広いものは10cm以上になるという。群馬県は昔から小麦の産地で、桐生市では幅の広い麺のことを「ひもかわ」と呼ばれていたらしい。

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碑の下のプレートに書かれていた説明文には、

「いもかわうどん 江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。この名物うどんは『平うどん』で、これが東に伝わって『ひもかわうどん』として現代に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。 平成14年3月 刈谷市教育委員会」と、あった。

では、いもかわうどんとは、いったいどんなモノなのか?これも残念ながら、記録が残っていないので判っていない。が、刈谷市内のうどん店の店主が独自の推理に基づいて、いもかわうどんを再現したという。(つづく)

1枚目の写真は昭和区白金の『そば処 味ご露』の「きしめん」。幅広の麺とコクのあるつゆのマッチングが最高な一杯。