永谷正樹のなごやめし生活

「なごやめし」について書き綴ります。

戦争。

f:id:nagoya-meshi:20200809203222j:plain

昨日は長崎市に原爆が投下された日。瞬時に7万人以上の命が奪われ、今日までに18万人の方が亡くなった。しかも、この攻撃は原子爆弾にどれほどの威力があるのかを検証するための、いわば実験だったらしい。

ふざけんな。爆弾を落とした街には人々の営みがあり、そこで暮らす人々には親兄弟や子供がいる。そんなことは考えればわかる。想像力が欠如していたのか、それとも「戦争の早期終結」という大義名分だったのか。いずれにしても、鬼畜の所業である。

しかし、それは日本軍の攻撃によって亡くなった方の遺族も同じように思うだろう。私は日本人として、原爆投下のボタンを押した米軍パイロットへの怒りは当然ある。でも、米兵も日本兵も本心では何の恨みもない人を殺したくなかったはずだと思いたい。殺されないために、殺す。まさに地獄だ。これほどの悲劇はない。

もちろん、「国を、大切な人を護るため」という動機もあったと思う。だから、誰も責めることはできないし、責めてはならない。そこから何を学ぶのか、である。残念ながら、終戦から75年が経つが、世界も日本も前の戦争から何も学んでいないように思えてならない。

今から7年前、私はある歴史雑誌で元特攻隊員である板津忠正さんを取材し、手記という形でまとめた。以下にそれを転載する。かなり長い文章だが、戦争について考えるきっかけとなれば幸甚である。

 

板津忠正さん

1925年、愛知県名古屋市生まれ。43年、逓信省米子航空機乗員養成所へ入所。45年5月、陸軍特別攻撃隊員として沖縄作戦に出撃したがエンジントラブルで徳之島海岸に不時着。その後も出撃命令が出たが悪天候で中止となり、終戦を迎える。戦後は特攻隊員を慰霊すべく全国の遺族を訪問。知覧特攻平和会館初代館長。

 

昭和18年10月、民間のパイロット養成機関である逓信省米子航空機乗員養成所へ入所しました。私の母の実家は三重県の明野にありまして、今でも陸上自衛隊航空学校があるのですが、当時から戦闘機が空中戦の訓練をしていました。それをいつも憧れの眼差しで眺めながら、いつかは私も戦闘機乗りになって、敵と食うか食われるかの駆け引きをしてみたいと思っていました。

ところが、残念ながら私は背が低かったために少年飛行兵や予科練には入れませんでした。それでも夢を諦めきれず、養成所の試験に挑んだのです。合格したときは本当に嬉しかったですよ。鬼の首をとったような気分でしたね。

昭和19年3月に福岡県の大刀洗陸軍飛行学校に転属となり、卒業後は台湾・潮州の教育隊を経て、兵庫県の加古川飛行場に配属されました。明石海峡では実弾射撃の訓練をしました。的は300メートルの紐の先に付けた長さ5メートル、口径75センチの吹き流し。それを飛行機で引っ張って、空中で撃ちます。弾には色が塗ってあり、貫通すると2点、片方だけだと1点という具合に点数が決められているのですが、これが難しい。事前に飛ぶ場所を教えられるものの、空や海に線が引いてあるわけではないので的に当てるどころか通過してしまうんです。

最初の頃はよく上官に殴られましたね。訓練は真剣そのものでしたから、腕を磨くためには殴られても当然だと思っていました。私は隊の中でいちばん背が低かったので殴られるのはいつも最後。上官が私を殴る頃には力尽きてしまい、拳が頬を触る程度のこともありました。

飛行機の操縦に慣れてくると、徐々に命中するようになり、隊の中でも一目置かれました。私も含めて隊員たちは「一日も早く腕を磨いて敵をやっつけたい」と、悲壮感を持って取り組んでいたので、もっぱら会話も訓練の話ばかり。冗談を言い合ったりという心の余裕もありませんでした。

昭和20年5月25日、加古川飛行場で特攻隊が編成されました。敵と食うか食われるかの空中戦をやってみたいと思っていたので、たった1回の出撃で死ぬのはもったいないという気持ちが一瞬心の中を過ぎりましたが、沖縄が陥落すれば敵の攻撃が本州にも及びます。親兄弟を護るための防護壁にならねばという思いの方が勝っていました。お世話になった学校の先生と両親宛に「これから粉骨砕身、任務に邁進するのみ」と遺書を書き、仲間とともに意気揚々と知覧に向かいました。

5月28日、深夜3時に目を覚ますと、月明かりがとてもきれいで、まさに攻撃日和と思いました。部隊が出撃前する前、私たちは互いに水杯を交わし、「敵に突っ込んだ後は靖國神社の大鳥居のところで会おう」という約束をしました。飛行機には250キロの爆弾を積んでいるので、速く飛ぶことができません。少しでも機体を軽くするために機銃も外していました。敵機に見つかれば体当たりをするか逃げるかしか選択肢はありません。敵に発見されないようにと祈りながら朝8時頃に出撃しました。

敵地まであと1時間ほどで付くというときにエンジントラブルに見舞われました。おそらく燃料漏れだったと思いますが、私は絶対に最後までついていきたいと思いました。しかし、だんだんと高度が下がっていき、友軍機から「戦線を離れろ」と手で合図されました。このままでは墜落するというときに私は島の方へ向かいました。

海岸が見えたので着陸を試みたところ、砂地に車輪が食い込んで機体が裏返しになりました。幸いなことに火も出ず、ケガもありませんでした。島の住民が砂を掘って外へ出ることができました。私が不時着したのは徳之島でした。ちょうど海軍の水艇が来ていて、大村まで乗せていってもらい、知覧までは電車で戻りました。

一緒に出撃した仲間は全員亡くなりました。靖国神社の大鳥居のところで会うという仲間との約束を反故にして私だけがのうのうと生きていることが耐えられませんでした。「早く命令をくれ、早く出撃させてくれ」と、毎日司令部に押しかけては訴えました。そのたびに「待て、待て」と押しとどめられました。

ようやく6月6日に出撃命令が出ました。これで仲間の後を追うことができると喜んだのも束の間、その日は大雨が降ったために出撃は中止。再び眠れない夜を過ごすことになりました。

6月23日、沖縄が陥落すると特攻作戦は中止となり、本土決戦要員として知覧に残りました。その頃は町に出るたびに富屋食堂に顔を出していました。店を切り盛りしていた鳥濱トメさんは面倒見のいい人で皆から慕われていました。着物を質に入れてまで特攻隊員をもてなしたそうです。憲兵に睨まれてもひたすら愛情を注いでいましたね。

「動くだけの飛行機全機でもって沖縄周辺の敵艦船を攻撃せよ」との命令が出ました。出撃は8月15日に決まっていましたが当日になって中止が伝えられました。16日・17日に待機しているときに戦争に負けたことを耳にしました。それまで私たちは日本が負けるということは考えたこともなく、あまりのショックで自殺する隊員もいました。私にはそんな勇気もなく、ただ呆然としていました。

8月18日に「即帰れ」との命令が出て知覧を後にしました。戦後、鳥濱トメさんと再会したときに「あんたが生き残ったんは、特攻隊のことを語り残す使命があったからじゃないの」と激励してくれました。それが精神的な支えとなり、昭和48年頃から全特攻隊員1037人のご遺族捜しを始めたのです。仲間との約束を果たせなかったことは今でも重荷になっていますが、きっと仲間も赦してくれるだろうとも思っています。

 

今回、ブログに板津忠正さんの手記を転載するにあたり、板津さんの消息を調べたところ、2015年4月に亡くなられていたことを知った。戦後、板津さんが歩んだのは、戦友たちの慰霊に捧げた人生だったと思う。心から敬意を表すとともに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 

※写真は、鹿児島の『知覧特攻平和会館』に隣接する『特攻平和観音堂』にある石灯篭。