永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

永谷正樹のつくり方。2

f:id:nagoya-meshi:20200916000739j:image

前回のつづきです。

nagoya-meshi.hateblo.jp

漫画家を志した私は、ノートに漫画を描きまくった。ただ、小学生ゆえに、ペンを使って描くわけではなく、鉛筆だったり、ボールペンだったり。今思えば落書きの延長だ。しかし、当時は本気で漫画家になることを考えていた。

根底には自分自身へのコンプレックスがあったのかもしれない。今では考えられないが、当時の私は食が細く、ガリガリに痩せていた。食べることにまったく興味がなかったのだ。家族で外食へ行っても、メニューを選ぶのも面倒くさいほどだった。

困り果てた母は、私に何とか食べさせようと、嫌いなものを細かく刻んで入っているのがわからないようにした。それでも食べないので母はかなり苦労したと思う。そんな私がフードライターとして仕事をしているから人生はわからない(笑)。

そのせいか、身体が弱く、風邪を引くとなかなか治らなかった。小学校4年生のときがいちばん酷く、咳が出ると止まらなくなり、呼吸もできないほど苦しかった。しかし、不思議なことに、病院へ行くとすぐに咳は治まるのである。何度、病院を往復したのかわからないほどだった。

この年には入院もした。病名は気管支喘息。入院は2週間ほどだったが、小学校4年生にとってはとてつもなく長い。病室では、漫画を読んだり、漫画を描いたりして過ごした。

たしか、当時描いていたのはSF漫画だったと思う。空からカップラーメンが飛んできて、それを食べるとスーパーマンのようなヒーローに変身するというストーリーだった。って、なんて話だ(笑)。

現実の自分は病弱なのに、自分の描く漫画の主人公は地球征服を目論む敵をバタバタとやっつける。きっと、自分のなりたい姿を漫画に投影していたのだろう。

当時読んでいた漫画も自分の考え方に大きく影響した。藤子不二雄や赤塚不二夫はとうに卒業して、彼らが漫画の神様として崇めていた手塚治虫の漫画を読み耽っていたのだ。

手塚漫画は、世の中の不条理や人間の醜さが描かれており、ほとんどの作品はハッピーエンドではない。手塚治虫の人間観や人生観に感化された私は小学生ながら人生に夢も希望も持てなくなってしまった。

と、書くと、友達がいなさそうな暗〜い子供をイメージされるかもしれない。実際、友達は多い方だった。が、友達の前では、人生に、将来に対して冷めきっていることはおくびにも出さなかった。

その頃から、「人間は平等」と学校で教わったことが空虚に思えた。実際には平等何かではなく、金持ちもいれば、貧乏人もいる。健康な人もいれば、病人もいる。頭の良い人もいれば、バカもいる。何とこの世の中は不公平なのだと思っていた。どうすれば両者の溝を埋めることができるのかを考えていた。ホント、憎たらしいガキだった(笑)。

つづく。