永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

再び、「寂しい」という感情。


「寂しい」という感情について書いた昨日のブログ。とりとめのない文章だったが、コメントを頂戴した。

自分はある時期からずっと「独り」と言う寂しさから逃れられぬ日々の中にいます🤫

とのこと。

私とX(旧twitter)で相互フォロー関係にある方からのものである。彼の言う「ある時期」に何があったのか知らないため、どうしても抽象的な話になってしまうが、返信させていただこうと思う。

まず、「独り」と「寂しい」はイコールではない。

私のようなフリーランスは大抵、独りで仕事をしている。会社に所属してチームよりも個人で戦うことを自ら選んだのである。そこに寂しさはない。ややこしくて面倒くさい人間関係やしがらみもないので、むしろラクだと思っている。

「独り」を「孤独」と言い換えると、ネガティブになるかもしれない。しかし、ドラマ「孤独のグルメ」はどうだろう?文字面だけ見ると、たしかに「ぼっち飯」的なニュアンスが伝わってくる。

しかし、実際は主人公である井之頭五郎が独りでの食事を思いきり楽しんでいるではないか。ドラマというか、もともとは漫画が原作となっているが、ヒットした秘密はタイトルと内容のミスマッチにあるのかもしれない。

私も基本的に食べ歩きも旅も独りである。独り飯や独り旅は、女房や家族と行くのとではまた違った楽しさがあるのは間違いない。

ただ、彼のように「独り」が「寂しい」と感じる人がいるのも事実である。そもそも、このコメントは自身の近況を伝えているのか、それとも私に何らかのアドバイスを求めているのかもよくわからない。

前者であるならば、「そうなんですか」としか言いようがない。後者であれば、寂しさから逃げられぬのなら、とことん向き合うしかないだろう。

昨日のブログにも書いた通り、寂しさを紛らわすために物理的な行動を起こしたとしてもなかなか埋まらない。だから、埋めようなどと考えない方がよい。

「寂しい」というのは、心の問題なのだ。言い換えれば、心の中を寂しさが支配しているのである。本来、心の統治者は自分自身のはずなのに、交通整理ができていない状態なんだと思う。

「時間が解決することもある」というアドバイスがある。人は辛いことがあると記憶から消し去ろうとする。おそらく、生物学的にそのようにできているのだ。私はそれが嫌だった。だから、とことん向き合うことにした。

私が抱いていた「寂しい」という感情の正体は、平たく言うと「老い」だった。徒に年を重ねているものの、心がついていかないことがとても寂しかったのだ。今もいろいろ思い出すとひどく落ち込む。

では、なぜ立ち直ることができたのか。1つは、やはりこのブログの存在である。心の中のモヤモヤを文字化することで整理できたのだ。

もう1つは、これは後から気がついたことだが、自ら「喜ぶ」こと。どんな小さなことでもよい。例えば、今朝は目玉焼きが上手にできたとか、その写真をキレイに撮ることができたとか。って、まんま私ではないか(笑)。

人は「喜ぶ」ことで自己肯定感が高まる。「寂しさ」が闇だとしたら、「喜び」は光だ。闇に包まれた心に光を照らすのだ。

kazさん、健闘(?)を祈ります。