永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

2人の兄。

先日、ブログで私には2人の兄がいることを書いた。私の父母はお互い離婚してから結婚したため、それぞれに子供がいた。それが兄たちである。

大口町で暮らす兄は母の、東京の兄は父の連れ子で、私には兄と一緒に暮らした記憶はない。東京の兄は一緒に暮らしたことがあるそうだが、私は幼かったので覚えていないのだ。一方、大口町の兄は、

「ある日、突然両親がいなくなった」という。以来、祖母と一緒に暮らしていたので、私は幼い頃、“おばあちゃん家の兄ちゃん”と呼んでいた。

父母が亡くなってから、大口町の兄は堰を切ったように父母に対する恨み言を言うようになった。それだけ孤独だっただろうし、大変な思いをしてきたのは間違いない。

生きていく中で親に捨てられるほど悲しいものはない。兄からすれば、私はその苦しみを知らずして温々と生きているように見えるのだろう。

社会からドロップ・アウトしても仕方がないような状況で兄は懸命に生きて、大きな会社へ就職して出世もした。それはすごいことだし、そんな兄を尊敬している。兄としては自分を捨てた父母を見返してやりたいという負のエネルギーを糧にしてきたのだろう。それを否定するつもりもない。

新築した立派な自宅や、しょっちゅう買い替えている高級車、子供や孫の学校の成績など私のチャンネルには微塵もない部分で「オレは勝ち組だ!」とばかりにマウントを取りにくるのも仕方がないことだと思っている。

一方、東京の兄も継母である私の母からかなりひどいことをされていたらしい。本人は決して言わないけど。

兄と母が和解したのは私が小学校6年生くらいの頃。それは明確に覚えている。当時トラックの運転手をしていた兄は高速道路で事故を起こして、重傷を負った。朝、警察から連絡を受けて電話の前で泣き崩れていたのを今でも覚えている。

母は父と一緒によく関東の病院へお見舞いに行った。そこで何があったのかは知る由もないが、以来、兄は「親父とお袋は変わったもんなぁ」が口癖になった。父母のことを許した兄のことも私は尊敬している。

十三回忌が終わった後に訪れたうなぎ屋でも大口町の兄は酒の勢いも手伝って恨み節が炸裂した。正直、私にあれこれ言われても、父母は亡くなっているのだから、何ともしようがないという思いもあるが、父母がこの世に遺した業を刈り取ってやるのも子である私の役目であると思っている。

その代わり、私の息子たちを巻き込むことは絶対にしないし、させない。こんな不毛極まりないことは私の代限りで終わらせねばならない。息子たちは私の父母、つまり祖父母に愛されたことを決して忘れてはならないのだ。

うなぎ屋から近くの駅まで私の車で送った。帰り際、私は大口町の兄に握手を求めた。兄は黙って私の手を握った。どんなに恨み言を言っても、私たちは兄弟なのである。