永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

名古屋のモーニングの起源は江戸時代、という珍説。

ある媒体で名古屋の喫茶店のモーニングを取材することになり、店のリサーチを兼ねてあらためてモーニングについて調べてみた。すると、実に興味深い説を唱えるHPを発見した。

名古屋の人々が喫茶店を好んで利用している理由について、2つの理由があるという。まず1つ目は、地価の安さ。喫茶店の開店が相次いだ昭和30年代から50年代まで東京や大阪などの都市部の中では土地代が比較的安かったため、出店しやすかったというもの。

これは正しいと思う。店舗兼自宅にして家族で店を回せば、テナント料や人件費を抑えられる。ゆえにサービスであるはずのモーニングがどんどん派手になっていったのだ。

思わず、首を傾げたのは、もう1つの理由。以下に引用させていただく。

2つ目の要因は江戸時代まで時を遡ります。 当時、名古屋周辺を治めていた尾張徳川家の藩主や家臣は代々芸事に熱心で、舞踊や能だけでなく、お茶にも長けていました。 海や山に囲まれたこの地域は生産性が高く、庶民の生活もゆとりのあるものでした。 そのため戦前くらいまでには農家にも一式、野点の道具があり、農作業の合間に一服を楽しむ習慣があったと言われています。 お茶とお茶菓子で一服をしていたものが、現在はコーヒーとモーニングやおつまみ、といった文化に変わっていった形です。 つまり名古屋の人々の喫茶店好きは現代よりもはるか昔、江戸時代の頃から続いていたと言ってもよいのではないでしょうか。

たしかに、稲沢市や津島市の農家で仕事の合間に「野点(のだて)」を楽しんでいたという話はよく聞く。実際、西尾張地方の歴史資料館には野点の道具が数多く寄贈されている。

 しかし、その後の「お茶とお茶菓子で一服」から「コーヒーとモーニングやおつまみ」へと変わっていったプロセスがまったく解説されていない。コジツケ感というか、これは書き手の願望ではないのか。

実はこの珍説、私が一宮モーニングのアドバイザーをしていたとき、仲間内で冗談半分に話していたことがあった。一宮も野点が盛んだったらしく、今も市内には数多くの和菓子屋が軒を連ねている。

それだけお茶を嗜む人が多いということなのだが、一宮を喫茶店のモーニングサービス発祥の地として宣言する理由としては弱すぎるということで、この説をHPに載せることは見送られたのだ。

ネットにはこういったテキトーな説が溢れかえっている。それを鵜呑みにした人がブログやSNSで発信するとどんどん拡散されて、珍説がいつのまにか真説になりかねない。

あ、あと、「モーニング文化」というフレーズもよく目にする。いやいや、そんな文化、ありませんから。仮にあったとしても、通用するのは名古屋エリアだけ。モーニングは、名古屋の「喫茶文化」の1つにすぎないのだ。