前にも書いたが、私の幼い頃は町の鰻屋さんにひつまぶしは置いていなかった。ひつまぶしそのものは『あつた蓬莱軒』や『いば昇』で出されていたと思う。ひつまぶしは、それらの店の常連が食べていた知る人ぞ知るメニューだったのである。
元水産業界紙の記者に聞いてみたところ、ひつまぶしが町の鰻屋さんでも食べられるようになったのは、愛知万博が開幕する少し前だという。つまり、一部の店の名物だったひつまぶしが「なごやめし」の知名度アップと平行する形でメジャーになっていったのだ。伝統ある料理に思われがちなひつまぶしが人々に知れ渡ったのは、たった15年前のこと。驚くべきスピードで広まったのは、テレビや雑誌といった既存のメディアのほかインターネットの急速な普及も後押しとなった。
ひと昔前までは東京で流行っていたものが名古屋を飛び越えて大阪でもブームとなり、かなり遅れて名古屋へとやってきた。しかも、名古屋にたどり着く頃には、伝言ゲームの後半部分のように少し違う形に「進化」していた。当の名古屋人もブームの大元をよく知らないので(笑)、それが東京で流行っていると信じて疑わなかった。
一例を挙げると、バブル期を象徴する(実際はバブル崩壊後)ジュリアナブームである。『ジュリアナ東京』では、名物「お立ち台」でワンレン&ボディコン姿の女性が“ジュリ扇”と呼ばれる羽根付きの扇子を振り回しながら踊っていた。そのブームが少し遅れて名古屋にも到来したのだが、伏見の『キング&クイーン』や女子大の『マハラジャ』などディスコの「お立ち台」ではワンレン&ボディコンどころか、パンツも丸出し、勢いでトップレスになる女性もまでいた。
このように東京のブームとは少し違う形に「進化」していたのだ。それが東京の編集部から見たら面白いらしく、当時、駆け出しのカメラマンだった私は夜な夜なディスコに繰り出してお立ち台の女性にレンズを向けた。しかし、今はインターネットで東京どころか世界的なブームの情報を瞬時に入手することができるので、タイムラグはほとんどない。
ずいぶんと前置きが長くなったが、ここからが本題。既存の「なごやめし」に独自のアレンジをくわえた「新なごやめし」について考えてみようと思う。ひつまぶしに限らず、台湾ラーメンやあんかけスパ、イタリアンスパなども、もともと店の看板メニューだったわけである。それが地元の人々から高く評価され、真似をする店が増えていき、名古屋のローカルフードとなった。
これらのムーブメントは昭和の、古き良き時代のみに起こったわけではない。「なごやめし」は昔ながらの懐かしい味を楽しむものでもあるが、それがすべてではない。
「バターや生クリームをふんだんに使ったクラシックスタイルこそがフランス料理だ!」と主張する人はよほど了見の狭い人だろう。現代のフランス料理は、醤油や抹茶、カレー粉なども遠慮なく使うのだから。つまり、食文化は時代とともに変化するのだ。
私たちの記憶に新しいのは、台湾まぜそばだろう。台湾まぜそばを生み出した『麺屋はなび』の新山直人社長は、「新なごやめし」というキャッチフレーズを用いていた。台湾まぜそばも地元の人々に高く評価され、他店もこぞって真似をした。もはや台湾まぜそばは「新なごやめし」ではなく、「なごやめし」であると私は思っている。
私は講談社のグルメ情報誌『おとなの週末』で'14年11月から'15年7・8合併号まで「おと週認定“新名古屋めし”」という連載ページを担当した。誌面では従来の「なごやめし」に独自のアレンジをくわえて進化させた料理を「新なごやめし」と定義していた。私は書き手として、誌面で紹介した「新なごやめし」がもっとメジャーとなり、何十年後かに「なごやめし」として定着することを願っていた。今後はこのブログでも「新なごやめし」を紹介していこうと思う。
※写真は、名店『うな富士』で料理長を務めた店主が東区徳川町に開店させた『炭火焼き鰻 清月』の「ひつまぶし」。特筆すべきは甘さと辛さが絶妙な『うな富士』譲りのタレ。備長炭で香ばしく焼き上げた鰻の旨みをが引き出している。