永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

伝統と伝承。

少し前にXで私がよく知る店のご主人の投稿が大バズリした。その内容は、「先代が店を切り盛りしていた頃の常連」という客から「味が変わって残念だ」と言われたというものだった。

決して勘違いしてほしくないのだが、ご主人はその客のことを愚痴っているわけでもディスっているわけでもない。そもそも、人のことをどうこうおっしゃる方ではない。私が出会ったクセの強い料理人たちの中でも人格者であると断言する。

ご主人がXの投稿で伝えたかったのは、「伝統とは何か?」という問いかけだったのではないかと思う。つまり、先代が創り上げた味を1ミリも変えずに守り続けることが伝統なのか否かというものである。

私の考えは「否」である。まず、物理的なことから触れておこう。先代が使っていた食材とまったく同じものは手に入らない。

野菜や肉、養殖魚も昔よりも確実に美味しくなっているわけで、それらを昔のレベルにするということからして不可能だ。それに昔と変わったのは食材だけではない。調理器具も進化している。

また、同じ人が同じ食材の分量で同じものを作っていても、まったく同じ味はできない。絶対に「ブレ」が生じる。とは言っても、客にはわからないレベルで。その幅を極限まで小さくしつつ、さらなる美味しさを追求し続けるのがプロなのである。

ご主人は先代の味を変えたことを認めている。毎日料理と向き合う中で先代の味の改善点を見出したのである。これは先代を否定したことになるのだろうか。私はまったくそう思わない。

なぜなら、先代もご主人も「美味しい料理を作りたい」、「お客様の笑顔が見たい」という「思い」は同じなのだから。

落語や歌舞伎などの伝統芸能で例えるとわかりやすい。五代目と六代目とはキャラクターも芸風も違うのは珍しいことではない。では六代目は先代を否定していることになるのか。違うだろう。

伝統とは目に見える形ではなく「思い」なのである。形に現れているものは「思い」を遂げるための手段にすぎないのだ。

逆に受け継いだ手段や方法のみを頑なに守っているとしたら、それはもはや伝統ではない。伝承なのだ。それがすばらしいと思う人もいるだろうが、私はそこに一切価値を感じない。