永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

「なごやめし」を支える豆味噌の秘密

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味噌かつ味噌煮込み、味噌おでんなど「なごやめし」を語る上で欠かせないのが味噌。東海地方で味噌といえば大豆と水、塩のみで作った豆味噌である。(赤味噌と呼ぶこともあるが、長期熟成の米味噌も赤味噌と呼ばれるのでここでは豆味噌とする)

私は1年365日、ほぼ毎日豆味噌に少量の米味噌をくわえた赤だしを飲んでいる。豆味噌は加熱しても味や風味を損ねることがない。前にも書いたが、私の母親は朝に作った赤だしを温め直して昼も夜も食卓に並べていた。煮込むほど具材にしっかりと味噌が染み込む赤だしは立派なおかずになるのだ。白味噌で同じことをしたら、不味くてとても飲めないだろう。以前、そんな豆味噌の美味しさを九州出身の編集部員K氏に力説したところ、

「仮にこの世から豆味噌がなくなったとしても僕の人生には何の影響もないから」と、涼しい顔で言いやがった。冗談じゃない。名古屋人にとって豆味噌のない人生なんて考えられない。そこで今回は「なごやめし」を支える豆味噌の秘密に迫ろうと思う。

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徳川家康生誕の地、岡崎城から西へ八丁(約870m)離れた八町村(現岡崎市八帖町)は、東海道矢作川の交わるところにある。原料となる大豆や塩が入手しやすく、良質な天然水にも恵まれ、味噌造りにとって三拍子揃った立地条件だった。
いつ頃から味噌作りが行われていたのかは定かではないが、全国味噌工業協同組合連合会が味噌の効用に関する科学的データ等の収集、料理メニューの開発、PR活動を目的に設立した『みそ健康づくり委員会』によると、八町村産の味噌、八丁味噌が脚光を浴びたのは江戸時代。大名の参勤交代で全国にその名を知られるようになったという。
徳川家康は江戸に本拠を構えてからも三河から八丁味噌を取り寄せていました。5つの野菜と3つの根菜を入れた具だくさんの赤だしが好物だったそうです」(みそ健康作り委員会)
家康が亡くなったのは75歳。当時としては長寿の人生を送ることができたのは、栄養価の高い八丁味噌の影響も少なからずあったのだろう。

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八丁味噌は家康亡き後も将軍家代々の愛用食として重宝された。愛知県岡崎市八帖町にある『カクキュー八丁味噌』は明治25年から宮内省への納品がはじまり、34年には宮内省御用達となった。しかし、東京では定着せず、いまだに東海地方のみで食されているのはなぜだろうか。

「はっきりとしたことはよく分かっていませんが、高温多湿の東海地方の気候に原因があるといわれています。米麹や麦麹の味噌は酸敗が起こりやすいのですが、豆味噌は高温に耐え、長期保存ができます」(みそ健康作り委員会)

また、昔はお金の代わりにもなった貴重な米を使わず、大豆を代用してしまうところに堅実な名古屋人気質を感じる。しかも、豆味噌は辛そうに見えるが、実は塩分濃度はそんなに高くない。低コストで高い栄養価と長期保存を併せ持つ高機能食品は名古屋人気質によって育まれたのである。

現在は「なごやめし」のブームも手伝って、駅や高速道路のSAなどでは豆味噌を使ったキャラメルやカレー、ビールなどさまざまな商品が販売されている。

また、『カクキュー八丁味噌』『まるや八丁味噌』の2社は今でも昔ながらの製法で味噌を作っている。それぞれ工場見学もできるので名古屋人の豆味噌愛に触れてみてはいかがだろうか?