永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

永谷正樹のつくり方。1

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今月25日で、私がフリーになって25周年を迎える。誰か祝ってくれ。自分が会場をおさえて人を集めてお祝いをするのは、誕生日にキャバクラでお金を払っておねえちゃんたちに祝ってもらうのと同じじゃないですか(笑)。

ってことで、誰か祝ってくれ。今のところ9月25日(金)は、取材も何も入っていないし。誰か祝ってくれ(←クドイ・笑)。

いや、そんなのはどうでもいい。26歳のときに編集プロダクションを辞めて、人生のちょうど半分がフリー生活になってしまった。23歳で出版の仕事をはじめたとき、30歳すぎにフリーになれればよいと思っていた。緻密に計算して勝算を見出したから独立したわけではない。完全に見切り発車。

カメラマンだけではなく、ライターとして仕事をしているのも自ら望んだことではない。完全に成りゆき。テレビや講演会など喋る仕事もノリというか、面白そうという好奇心からはじめただけ。

もちろん、すべて自分の意志で決めたことだが、私の生き方や考え方は、他人様からすれば「変わっている」らしい。どこで道を踏み外したのか(笑)。それを自分自身で検証すべく、これまでの半生を出来る限り詳しく思い出して綴っていこうと思う。

1969(昭和44)年4月25日、愛知県西春日井郡新川町(現・清須市)で私は生まれた。新川町での思い出はほどんどなく、記憶のスタート地点は隣町の西枇杷島町(こちらも現・清須市)。何歳のときに引っ越してきたのかもわからないが、小学校2年に進級するまでそこで暮らした。

両親と5最年上の姉の4人暮らしだったが、年に何回か「兄」が家に帰ってきた。また、ときどき母とともに別の「兄」が暮らす家に行くこともあった。兄たちは末っ子の私を可愛がってくれた。

とくに年に何回か家に帰ってくる兄はお小遣いを沢山くれたので大好きだった。幼心になぜ、2人の兄と暮さないのか不思議だった。しかし、両親には聞いてはいけないことだと思っていた。

実際、ただの一度も聞いたことがない。他の家とは違う我が家の事情が飲み込めたのは中学生くらいの頃だろうか。要するに両親はお互いにバツイチ同士で、兄たちは父と母の連れ子だったのだ。兄たちは大変な苦労をしたということは、私が大人になってから聞かされた。

私が兄の立場だったら、歳が離れているとはいえ、両親の愛情を一身に受けていた姉や私に辛く当たっていたと思う。しかし、兄たちは違った。今でもそれはとても感謝している。

幼い頃は絵を描くのが好きだった。新聞の折り込みチラシの裏にいつも落書きをしていた。それはおそらく、父の影響である。父はマンガ雑誌などを見ながらスラスラと模写して私に見せた。幼い私にはそれが魔法のように見えたのだ。その魔法を身につけたくて、私は来る日も来る日も絵を描いていた。

保育園に入ると、ケイタ君という、とても絵の上手な子がいた。彼が描いた自動車の絵を見て「負けた」と思った。お絵描きの時間に彼がどうやって描くのかが知りたくて、隣にピタッとくっついていたのを今でも覚えている。彼はそれをすごく嫌がっていた(笑)。

しかし、いつの間にかケイタ君は引っ越してしまい、保育園で会えなくなった。ちょうどその頃、私は絵を習うことになった。どういった経緯でそうなったのかは知らない。想像するに、私の絵の先生はケイタ君だったが、いなくなってしまったため、母に無理を言っていたのだろう。困り果てた母が絵画教室を探して、習わせてくれたのだと思う。

絵画教室に通ったのは、ごくわずかな間だったので、ほとんど覚えていない。先生から褒められたことや「自由に伸び伸びと、好きなように書きなさい」と言われたことは覚えている。

小学校へ入学すると、マンガに夢中になった。ドラえもんやオバQをチラシの裏に書きまくった。それに飽き足らず、自分でストーリーも考えるようになり、将来は漫画家になろうと決めた。

つづく。