永谷正樹のなごやめし生活

「なごやめし」について書き綴ります。

場外乱闘。

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私の屋号は、『取材屋』。もともと、屋号ではなく、肩書きとしてそう名乗っていた。フリーカメラマン兼ライターという肩書きは長すぎてカッコ悪いと思っていたのだ。

自分で言うのもアレだが、『取材屋』というネーミングは、屋号にしろ、肩書きにしろ、秀逸だと思っている。取材先で名刺を出すと、「ほぉ、取材屋ですか!」と、よく言われる。それが会話の糸口になるのだ。

取材の仕事は、23歳のときに転職した編集プロダクションではじめた。その前は広告制作会社でカメラマン兼営業として働いていた。バブル期ということもあり、これまで外部に発注していた制作を社内でやることになり、私以外にもデザイナーとコピーライターが同期で入社した。

制作していたのは主に会社案内。当然、専門学校を出たばかりの私に撮影のスキルは皆無。しかも、当時はデジタルではなく、フィルム。社屋の外観くらいは撮れるものの、ストロボの使い方すら知らないのである。社内や表紙のイメージなどは本を参考に、見よう見まねで撮影していた。もっと本格的に写真を学びたいとは思ったが、すぐに辞めてしまっては世間的に信用を失うと思っていた。結局、その広告制作会社では3年間働いた。

23歳になり、将来のことを考えると不安でたまらなくなった。何しろ、3年も出遅れているのである。もう一度、原点に戻るつもりで、フォトスタジオに入社してイチから写真を勉強し直そうと思った。就職情報誌に掲載されているスタジオに片っ端から履歴書を送った。

ところが、すべて不合格。そりゃ無理もない。専門学校を卒業したばかりの、まだ手垢の付いていない20歳と、よそで働いていた23歳をどちらを採るか。私が経営者なら間違いなく前者を採る。しかし、もしも、この時点でどこかのスタジオに就職していたら、私の人生は今とかなり変わっていたかもしれない。

4、5社くらいから不合格を突きつけられ、目の前が真っ暗になった。自分の存在さえも否定されたような気がした。この状況を何とかせねばならない。来る日も来る日も就職情報誌を読み漁っていた。

そこで見つけたのが、ある編集プロダクションの求人広告だった。業務内容に「週刊誌・月刊誌に記事と写真を提供」とあり、興味を持った。このブログで何度も書いているように、白いものでもクライアントが黒と言えば黒になってしまう広告業界に嫌気も差していたのだ。すぐに履歴書を送り、面接を受けた。

ところが結果は不合格。またもや目の前が真っ暗になった。スタジオも自分を必要としていない。出版の世界も要らないといわれたら、自分はどうすれば良いのか。まさに八方塞がりの状態だった。いっそのこと、一般企業に就職することも頭を過ぎったが、やっぱり夢を諦めきれなかった。

ある日、再び就職情報誌のページを開くと、私が不合格になった編集プロダクションの求人広告が載っていた。そのとき、「もう一度、履歴書を送ってみよう!」と思った。それだけ切羽詰まっていたし、もう後がなかったのだ。ダメ元、という発想もなかった。絶対にここで働きたかった。

信じられないことに、再び面接をしてくれた。が、前回と違って募集していたのはカメラマンではなく、ライターだった。そんなことも確認しないまま履歴書を送っていたのである。面接時に

「君のお気に入りの店を800字くらいで紹介記事を書いてください」と言われ、友達が通っていたレストランバーへ行き、マスターに話を聞いて原稿を仕上げた。その内容はとっくに忘れてしまったが、書き出しは今でも覚えている。

「男なら隠れ家にしたい店の一つくらい持っていたいものである」だった(笑)。23歳の小僧がナニ言ってんだか(笑)。しかし、その一文がよいと言われて、私は採用されたのである。

不採用になった会社に再び履歴書を送るというのは、常識ではあり得ない。また、一度不採用と決めた者を採用するのも常識ではあり得ない。私も編集プロダクションも非常識だからこそ、波長が合ったのだろう。いや、場外乱闘で勝利をおさめた感覚だな。うん、いいよね。場外乱闘。目的を達成するには、何も正攻法でなくてもよいのだ。

それと、今思えば、23歳で目の前が真っ暗になるなんて笑ってしまう。やり直しは何歳になっても、何度でもできるのだと今は断言できる。現に50歳となった今でも私はやりたいことが沢山あるし、仮にそれが実現しなかったら来世でもチャレンジしてやろうと思っている。