永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

軸。

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少し前までは、カメラマンとライターの二刀流で仕事をしていることがコンプレックスだった。しかし、25年もこの世界で生き残っているのは、二刀流だったからこそ。今では写真と文章の両方をやっていて良かったと思っている。

そこで、ふと考えた。自分の「軸」となっているのは、写真なのか。それとも文章なのかと。もともと私はカメラマンだったこともあり、それが「軸」になっていると思っていた。

ところが、雑誌やWebメディアの企画を考えるとき、実にライター的な発想から生み出されることに気が付いたのだ。

企画の多くは、誰かと話しているときに「あ、これはネタになる!」というヒラメキから生まれる。その時点で原稿のリード文は完成しているのだ。これがライター的な発想である。いや、「ライター脳」といった方がわかりやすいかもしれない。

一方、カメラマンが「軸」であるならば、ビジュアルが先行する。週刊誌のモノクログラビアを数多くやっていた頃は、間違いなくカメラマン的視点だった。しかし、雑誌からモノクログラビアそのものがなくなり、Webメディアなどで長めの原稿を書くようになって、だんだんとライター脳へと変わってきたのだ。

私自身、カメラマンを志していたのだから、ライターよりもカメラマンであることのこだわりの方が強い。前だったら、ライター脳であることを否定していたかもしれない。が、今、そんな気持ちは微塵もない。

それは、カメラマンでもない、ライターでもない「永谷正樹、という仕事。」として考えられるようになったからだろう。私の中で二刀流であることのコンプレックスを完全に乗り越えたのである。

「永谷正樹、という仕事。」は、今のところ「撮ル」と「書ク」、「喋ル」の3つであるが、「軸」は一つでなければならないことはない。自分自身の「軸」がカメラマンからライターへとシフトしていったように、これから仕事の内容に応じて、変化することも十分に考えられる。

うーん……。ここまで書いていて、「軸」なんて、どうでもよく思えてきた。「永谷正樹、という仕事。」と謳うのであれば、ライター脳やカメラマン的視点が「軸」ではなく、私、永谷正樹自身ということになる。

まだそれを断言できないのは、今やっていることが「永谷正樹、という仕事。」になっていないからだ。これから自分が為すべきことは、今以上に「自分にしかできないこと」にこだわっていくことであると気が付いた。