永谷正樹、という仕事。

フードライター、カメラマンの日常を書き綴ります。

伝統。

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人の味覚は、時代とともに変わる。今の時代に合わせて味付けを変えれば済む話であるが、変えられないケースもある。

「店の伝統と歴史を考えると、レシピを変えるわけにはいかない」と、ある老舗料理店の店主が話してくれたことがあった。

たしかに、先代が、先々代が、いや、もっと前から受け継ぎ、守り続けてきたものを変えない、変えてはいけないというこだわりは嫌いではない。でも、こだわるあまり客足が遠のいてしまったら本末転倒である。

写真は、2017年にオープンした名古屋市昭和区『きしめん家 天むす 比呂野』の天むす。天むす店としては比較的新しい店である。店主は言う。

「『千寿』と『地雷也』の天むすを食べ続けて、これらに足りないものは何かと考えて、試行錯誤を繰り返して完成した」と。

『比呂野』は、喫茶店ととんかつ店が有名だが、その昔、先代が名古屋駅の三井ビル北館で天むす店を営んでいたことがあった。先代の息子さんである二代目の店主はそれを復活させるべく店をオープンさせたのだった。

「先代は私が22歳のときに亡くなってしまったので、レシピを知っている人が誰もいなかったんです。母や当時働いていたパートさんの味の記憶だけが頼りでした。当時の味を再現した上で、『千寿』でもない『地雷也』でもないオリジナルの味を完成させました」とか。

実際に食べてみると、単なるおにぎりではなく、ご飯の味そのものに奥行きがある。これは二代目店主が天むすに合うご飯を追求した結果生まれたものであるのは間違いない。

はたして彼がやったことは伝統を壊したことになるのだろうか。私の考えは、否。伝統とは、目に見えるカタチではない。そこに囚われてしまうとガンジガラメになり、身動きがとれなくなってしまう。そもそも、先代や先々代はそれを望んでいない。

伝統とは、カタチではなく、その奥にある「思い」ではないかと私は考える。料理の場合、「お客様に喜んでいただく」という思い。料理はそれを具現化したものにすぎない。思いさえ変わらなければカタチなんぞはどんどん変えればよいのだ。

私は伝統というコトバほど胡散臭いものはないものだと思っている。カタチばかりの伝統を重んじるあまり新しい文化や芸術が生まれるのを阻むことだってある。何が伝統だ。クソくらえってんだ。